八王子城
2018年1月6日
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八王子城跡ガイダンス施設 |
滝山城と八王子城の高低差の比較 |
八王子城は、深沢山(460m)に築かれた山城である。築城の時期は、天正10年(1582)から
天正15年(1587)と考えられているが、最後まで未完であったといわれている。
ガイダンス施設に入って、ビデオを観たり、説明版を見たりした。
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八王子城 |
滝山城と八王子城の高低差 |
八王子城跡の方に向かって歩いていくと、ガイドさんがいらして、案内をお願いすることにした。
氏照が滝山城から移ったのは天正12年(1584年)から天正15年(1587年)の間とする説が有力。
八王子城は、天正18年(1590年)6月23日、豊臣秀吉の関東制圧の一環で、前田利家・上杉景勝軍に
攻められて落城した。この、八王子城落城が決め手となって籠城を続けていた小田原城は開城、
北条氏は滅亡。氏照はこの時、小田原に籠城中で、開城後、兄の氏政とともに城下で切腹した。
城は大まかに、城下町に当たる「根小屋地区」、城主氏照の館のあった「御主殿跡」などの
「居館地区」、戦闘時に要塞となる「要害地区」に分かれている。
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「車人形」八王子市 |
「酒匂川」 小田原市 |
八王子城を納めた北条氏照、小田原城を納めた北条氏政、鉢形城を納めた北条氏邦という「北条3兄弟」のゆかりから、
3市町の観光協会は1994年に「北條三兄弟三領共同宣言」を締結。その後、昨年10月、姉妹都市盟約を結んでいた。
さらなる友好を深める証として、オリジナルデザインのマンホールふたを製作。
自治体間でマンホールのふたが交換された。ふたはそれぞれ、八王子が伝承芸能「八王子車人形」の演目である
「三番叟(さんばそう)」を舞っている様子、小田原市が市内を流れる酒匂川、寄居町が町の鳥であるキジと
町の花のカタクリ、町の木のヤマザクラをデザインしたものとなっている。
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「キジ、カタクリ、ヤマザクラ」寄居町 |
山下 曲輪 |
ガイドさん付き添いでないと入れないという曲輪があった。なぜ入れないかを聞くと、
私有地になっているらしい。タケノコなどが採れるようである。
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大手門跡 |
曳橋 |
1988年の発掘調査により、大手門の踏み石や土塁が検出されたことなどから大手門の存在が確認された。
門の形式は発掘された礎石や敷石などから「薬医門」の形状と考えられている。現在は埋め戻されている。
曳橋は御主殿へわたるために城山川に架けられた橋
敵が攻撃してきたときに引いて取り外し敵の侵攻を阻止することを目的として構築された。
現在、架けられている曳橋は現代に観光用に作られたもので、戦国当時はもっと粗末で低かったといわれる。
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櫓台石垣と曳橋 |
石垣 |
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御主殿への経路 |
この時代は、それまでの戦闘重視の山城から、近世的な天守閣を持つ平山城、平城への転換期であり、
比較的なだらかな丘陵を利用して構築された滝山城から、より急峻な八王子城に移ると言うことは、
時代を逆行する面もあった。しかし、安土城をはじめ関西の城で取り入れられるようになり、後に近世城郭の
一つの特徴ともなった石垣を取り入れているところに、古い時代の山城にはない、八王子城の特徴があったといわれる。
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築城当時の石垣 |
石垣 野面積み |
八王子城の石垣は、安土城を模したのではないかと言われてきている。
以前、氏照の家臣が安土城を訪れており、その際目にした石垣の様子を参考にしている。
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虎口 |
階段が歩きにくい |
虎口は城や武家屋敷の入口。曲輪の出入り口。階段の踏面が1m、蹴上が平均36pで、
登りにくい構造になっている。御主殿の入口から「コ」の字型に折れ曲がっている階段通路である。
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櫓門跡 |
櫓門跡 4つの礎石 |
踊り場から4つの建物礎石が見つかっている。礎石、石組側溝、石垣や敷石は当時のものを利用している。
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櫓門跡 |
御主殿跡 |
御主殿跡には、発掘調査の結果、多くの出土品が発掘された。
現在「慶安の古図」と呼ばれている古図が発見され、これは江戸時代初期の慶安元年(1648)に
描かれた八王子城の縄張り図のことであり、その後の発掘調査を遂行する上で重要な役割を
担うことになった。本格的な発掘調査は1987年(昭和62年)から行われ、87年には御主殿に直結した
石段と2ケ所の踊り場が発掘された。翌88年には御主殿地区と城山川を挟んだ、曳橋々台部や御主殿への
登城道(大手道)、大手門跡などが調査・検出されている。89年(平成元年)から90年にわたって
復元工事が行われた。出現した構造をもとに石段や石垣が復元され、御主殿に通じる登城道が再現されている。
92年、93年(平成4年、5年)にさらに深い発掘調査が御主殿地区で行われ、ここでは多くの遺構・遺物が
発掘されたのである。特に、御主殿と会所という大型建物構販売の発掘は特筆すべきであり、
また、多数の陶器や磁気も出現し、ベネチア製のレースグラス器等も発掘されている。
2013年に行なわれた発掘調査では、93年の発掘では看破できなかった池遺構、それをめぐる池泉式庭園遺構、
また、その中心には三尊石組構造がすえられそれらを取りまく石組のアレンジメントが発掘されたのである。
これらは現在、埋め戻されている。
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発掘された陶器 |
御主殿後の整備 |
八王子城は戦国末期に落城し、そのまま使われずに廃城となったため、江戸時代には徳川幕府の直轄地、
明治になってからは国有林となっていたため、あまり人の手が入らず、当時の遺構は良好な形で残っていたのである。
平成4・5年度、25年度と3ヵ年に渡って発掘調査を行ったようだが、まだ全容解明には至っていない様子。
なお発掘調査がなされたのはこの「居館地区」のみで、山上の「要害地区」はまったくの手付かずの状態である。
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雨水排水溝 |
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堀塀 |
会所跡の遺構 |
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堀塀 |
会所 |
置かれている石は、レプリカというより、イメージ石である。
本物はこの地表から60cm下に眠らせている。後世に残しているのである。
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石垣 |
石垣 |
戦国時代、いざ戦いの時に城主氏照が急いで本丸まで登る道が殿の道として作られており、
ガイドさんの案内で石垣を観に登って下りた。420年間手つかずのままの石垣群である。
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アシダ曲輪 |
御主殿後からガイドさんが「ガイド同行時のみ通行可能な道」へ案内してくれた。
アシダ曲輪は発掘調査をされていないので、芝生になっていた。
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金子丸 |
都心の方も見えた |
金子丸は、金子三郎左衛門家重が守っていたと伝わる曲輪
要害地区は深沢山(城山)の地形を巧みに利用して作られている。頂上に本丸が設けられ、
周囲に敵の侵入や攻撃を防ぐために「曲輪」と呼ばれる平場が配置されていた。
本丸直前の山道沿いから展望が開けた場所があった。都心の方もよくみえ、
スカイツリーや西武ドーム、筑波山も肉眼では見えた。
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棚門跡 |
八王子神社 |
棚門跡は、山頂方面へ続く道の尾根上に気づかれた平坦地。名前の由来は不明
八王子神社。左に小さな祠があり、、八王子城の戦いの際の城代だった横地監物を祀る横地社
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横地社 |
松木曲輪から望む 高尾山 |
松木曲輪から高尾山も望むことができた。
本丸周辺の曲輪は、右側に「小宮曲輪」、左側に「松木曲輪」を持つ構造になっている。
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松木曲輪の石碑 |
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松木曲輪は、戦国時代の豊臣秀吉の北条攻めの際に、北条家臣の中山勘解由家範が
前田利家軍と奮戦した場所らしく、石碑が建てられていた。
中山勘解由家範は、攻め手の前田利家から降伏開城を提案されるも拒否して北条家への忠節を誓ったという。
家範の勇猛ぶりは有名で、その遺児が徳川家に取り立てられ、水戸徳川家の家老にまでなったという。
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井戸「坎井(かんせい)」 |
本丸跡 |
手押しポンプがつけられている井戸からは、しっかり水が出ていた。
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小宮曲輪の狛犬 |
本丸跡石碑 |
小宮曲輪には一対の狛犬があった。お堂もあったが、朽ちた建物になっていた。
城主の留守を守る家臣団の一人 狩野一庵が守備していたとも伝わる曲輪だとかいわれる。
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棚門台下の 戦国石垣群 |
食堂「たかお」 |
棚門台下の 戦国石垣群は2014年5月末に出現。長年、落ち葉や草木で隠されていたのが、顕在化したのである。
ガイドさんの話では、顕在化したのはよいが、だんだん崩れてきているともいわれる。立ち入り禁止にはなっているが、
棚門台下の登山道からみることができた。
氏照は、北条氏、三代氏康の次男(または三男)として生まれた戦国武将。兄は小田原上の城主であった
四代氏政。氏照が6歳のとき、もともと山内上杉氏の家臣であった大石定久の養子に入った。
後に大石定久の娘婿となり、定久隠居の後、滝山城の城主となる。
北条政子で有名な北条は、鎌倉時代、関東一帯で強い力を持った豪族で、直接のつながりはない。
区別するために、戦国武将の北条を「後北条」と呼ぶこともある。後北条はもともと、室町幕府の御家人の
伊勢氏の一族だったと考えられている。今川氏の内輪もめに乗じて関東圏に進出し、駿府大森氏の
居城のひとつであった小田原城を奪って勢力を強めていった。この武将、「伊勢新九郎盛時」が
本名ではないかと言われている。後の北条早雲である
早雲の後、北条は氏綱、氏康、氏政、氏直と、五代100年に渡って小田原城を中心に相模国を統治してきた。
ガイドさんにガイダンス施設まで案内をしていただいて、お別れをした。ありがとうございます。
本当に八王子城のことをよく知っており、八王子城にまつわる歴史の話をいっぱい教えていただいた。
高尾駅までバスに乗り、食堂「たかお」で昼食を食べ、フロッピーでゆっくりし、帰路に着く。