石垣山一夜城と小田原城 

2019年1月27日

   
登城口近くの石垣   登城口

石垣山は、本来「笠懸山」と呼ばれていたが、天正18年(1590)豊臣秀吉が小田原北条氏を
水陸15万の大群を率いて包囲し、その本陣として総石垣の城を築いたことから「石垣山」と呼ばれるようになった。

   
  二ノ丸(馬屋曲輪)

この城は、関東で最初に造られた総石垣の城で、石積みは近江の穴太衆による野面積みといい、
長期戦に備えた本格的な総構えであったといわれ、度重なる大地震にも耐え、今日まで当時の面影がよく残されている。

 
小田原城がみえる   相模湾

   
 天守台跡 天守台跡から見下ろす 

天守台は標高261.1mで、最も高い位置にある。

   
「川島(鎧塚)なお美 慰愛碑」  えじまや 

一夜城ヨロイヅカファー​ム」は、亡き・女優・川島なお美さんの夫になった鎧塚パティシエのお店。
 相模湾を見渡せる景色の良い場所に1周忌の時に建てられた「川島(鎧塚)なお美 慰愛碑」がある。
碑に刻まれているのは「私は蝶となって 咲きみだれるお花から花へと舞い 毎年咲く桜となって 
花ふぶきをお客様に散らし たわわに実る果実となって あなたの作品として 美味しくお皿の
上にのります 美しく生き生きとしたファームガーデンは私の夢です その夢をかなえて下さい 
今までありがとう なお美より」という最後のメッセージ。
えじまやは、「カマス棒」を中心にしたメニューと陶器店らしい器で食事ができる。

   
 えじまや店内  洋風の作り

創業は江戸時代初期の1661(寛文元)年。小田原の西方にある箱根の関所の役人をしていた
江島家初代・権兵衛が、東海道筋の宿場町でもあった小田原に移って商売を始めたのが発祥。
箱根口交差点近くの江嶋屋は和かふぇ 「えじまや」にリニューアルを最近したようである。
お店の方に、店内を案内していただけた。小田原城のガイドもしていらっしゃるとのこと。

   
  かます丼 

   
北原白秋の直筆   

北原白秋は、大正7年から8年間を小田原で暮らした。生涯で創作した童謡作品は
1,200年編余りだが、その約半数がここ小田原で誕生している。

   
 茶室だった和室 陶器もならぶ 

店内は、一回は和室風、2階が洋風のつくりになっている。
脳血管疾患による死亡率が高い小田原市。食を通じて健康寿命を延ばし、誰でもどこでも健康を
意識できるまちを目指し、適塩、減塩の普及を中心とした「健康メニュー事業」を実施しているとのこと。

   
小田原城   

城の入口近くで、小田原城の歴史の説明をボランティアガイドさんにしていただいた。
小田原城は南に相模灘、東に酒匂川、西と北には箱根山という要害堅固な城で、
四代目北条氏政の時代には上杉謙信や武田信玄の攻撃を退け、難攻不落といわれていた。
しかし、豊臣秀吉は、味方の犠牲を少なくさせるために、長期の構えによる包囲戦を組み、
小田原城は天正18年(1590年)落城。北条氏の領地は徳川家康に与えられ、家康の家臣だった
大久保氏が城主となる。その後は幕府の直轄となり、維新後の明治3年(1870年)に廃城となった。

   
   

久しぶりの小田原城に行ったが、前回より、城の中の資料館が充実していたし、
ビデオ上映などがあり、映像での説明もするようになっていた。人もたくさん入っていた。

   
  小田原城天守より石垣山城を望む。 

天守閣最上階には、展望デッキがあって、ぐるっと一周回って、展望を楽しんだ。

   
小田原城天守より石垣山城を望む。   

   
 大島もみえる  奥に三浦半島

   
 小田原駅  

最上階のこのフロアでは、江戸時代の天守の一部が再現。江戸時代の天守にあった
摩利支天(まりしてん)像の安置所が、地域の木材で、伝統工法を用いて制作された。

   
 摩利支天像 摩利支天像 

武家の守護神として信仰されてきた三面六臂の摩利支天像。小田原藩主大久保忠朝によって
貞享3年(1686年)に奉安された。イノシシの背に立っている。

   
 白梅  赤梅