2019年8月18日
山中城にある売店 | 出丸御馬場堀 |
愛知の実家に行った後に、新幹線の三島駅で下りて、山中城と楽寿園に寄った。
観光案内所に寄ると、バスのフリー切符が900円で買えるという。山中城前バス停まで
片道610円なので往復では320円の得になるので、買うことにした。。バスには結構な人が
乗っていたが、ほとんどが三島スカイウオークのバス停で降りた。
山中城跡公園は、国道1号線を境に北側と南側に分かれている。
北側が本城となる部分で、南側はのちに増築された岱崎出丸(だいさき)である。
出丸御馬場堀の看板 | すり鉢曲輪 |
出丸御馬場曲輪は、出丸の司令塔としての機能を持たせた曲輪である。
古くから御馬場(おんばば)跡と伝わっており、土塁で東側と北側を守り、
西側は深い空堀につづき、南側は急峻な谷で囲まれた岱崎出丸最大の曲輪である。
曲輪内は、本丸は同様式の二段構築でつくられている。
すり鉢曲輪は、山中城出丸の最南端を防備する重要な位置にある曲輪であり、
そのためか曲輪の構築方法も、本丸側の曲輪と異なり、中央部を
凹(くぼ)ませて低くし、中心から緩やかな傾斜で土塁まで立ち上がり、
中途から傾斜を強め土塁の頂部に達している。上方から見た様子が、
すり鉢によく似ていることから通称「すり鉢曲輪」と呼ばれる
一ノ堀 | 一の堀 |
一ノ堀は、西面、つまり東海道に面する部分に畝堀が掘られている。
岱崎出丸曲輪(南側) | 「構築途中の曲輪跡」 |
岱先出丸は、標高547〜557m、面積20,400uに及ぶ広い曲輪である。
秀吉の小田原征伐に備えて増築された出丸であったが、時間がなく未完成のまま戦闘が始まった。
この出丸を守ったのは副将であり、小田原本城から援軍として派遣された
間宮豊前守康俊といわれ、壮絶な戦闘を繰り広げ、豊臣軍の先手・一柳直末を
討ち取るなどしたが、緒戦で全員が討死したと伝えられる。享年73。ちなみに、
彼の娘が宗閑寺を開いたらしい。さらに言うと、「間宮海峡」で有名な間宮林蔵の先祖にもあたる。
三の丸堀へ続く城址の門 | 三ノ丸掘 |
山中城は戦国時代末の山城で、土塁と堀で構成されており、天守閣と石垣がないということが大きな特徴
元西櫓下の堀の説明 | 畝掘 |
堀の中に畝を造り、堀に入ってきた敵の動きを制限することで、弓矢や鉄砲で狙いやすくしてい
あじさい |
西ノ丸と西櫓の間にある障子堀 | 西ノ丸と西櫓の間にある障子堀 |
展望地 | 本丸と北の丸をつなぐ橋 |
天気が良ければ、富士山も見えるはずだが、この日は生憎、天気は悪かった。
天守櫓跡 | 本丸西橋 |
天守櫓跡は標高586mという山中城第一の高地に位置しており、
井楼(せいろう)または高櫓が建てられていたものと推定されるが、
発掘調査では櫓の柱穴を確認できなかった。
おまけ
8月18日の山中城は、雲がかかっていて、富士山は見えなかったが、
8月24日朝、山中湖キャンプの時は、富士山がよく見えた。