明石城 

2023年11月5日

   
明石駅   明石駅前

前日、播州赤穂の東横インで泊まる。朝、7時55分発の播州赤穂駅から
明石駅に向かう。この日は午後から神戸で研修なので、早めに出る。

   
   

   
   

菊は明石市の花であり、昔から明石市にはたくさんの愛好家がいた。

   
 坤櫓(ひつじさるやぐら)南面 石垣 

明石城は、1619年(元和5年)に、初代明石藩主小笠原忠政(後の忠真)が
外様大名の多い西国の備えとして、徳川幕府2代将軍秀忠から命じられ築城。
本丸跡に建つ巽櫓・坤櫓は日本に12基しか現存していない三重櫓のうちのふたつである。
坤櫓は伏見城から移築されたと伝わる、城内で最大規模の3重櫓。天守が築かれなかった
明石城では天守代用として使われた。櫓の大きさは、桁行六間(10.94m)、梁間五間(9.15m)、
高さ七間二尺九寸(13.28m)、340トンで、各階の高さは3m強で、巽櫓よりひと回り大
櫓の名は方位を表し、坤(ひつじさる)は本丸の南西・巽(たつみ)は南東にあることに由来

   
巽櫓(たつみやぐら) 東面 本丸から南望 明石海峡 

初代明石藩主は、織田信長と徳川家康の二人を曽祖父に持つ小笠原忠政(後の忠真)。
その後も、戸田松平家、大久保家、藤井松平家、本多家と続き、1682年(天和2年)に
越前大野5万石の松平直明が入封し、以降10代にわたって明石藩を治め、1871年(明治4年)に
廃藩置県を迎えるきい。巽櫓は本丸の南東端に築かれた3重櫓で、船上城から移築されたと伝わっている。

   
明石駅方向を望む。   

明石城を作った時に小笠原忠政は今の明石の形の基礎となる「町割り」という都市計画を行っていて、
その町割りを行った人物は剣の達人、宮本武蔵(みやもと むさし)であったと言われている。

   
 上ノ丸教会 妙見社

上ノ丸教会は鐘楼の切り妻屋根の下にある全国でも珍しい壁面日時計。
丁度、東経135度子午線が教会の間近を通っている。

   
拝殿  妙見尊 縁起 


本松寺の拝殿には「妙見大菩薩」と書かれた提灯が見える。妙見尊は神仏習合時代の
名残りで、運勢を切り開いて、信奉する人を助けようとする開運妙見大菩薩と云う。
額には「開運殿」と記されており、北の方角を示す北極星が人生を良い方向に導いてくれる。
本松寺の妙見尊は、往昔、武将「島左近」が常時崇拝された尊像で、後年明石藩に仕え
本松寺の檀信徒となった島家の末裔により、當山に奉納された霊験誠にあらたかな尊像である。
明治の神仏分離令により、妙見社と本松寺に分離されたが、今でも関係は深い。

妙見尊 縁起 
 當山の妙見尊は、往昔、武将「嶋左近」が常時崇拝された尊像で、後年、明石藩に仕え本松寺の檀徒となった島家の末裔により、當山に奉納された霊験誠にあらたかな肖像であります
 當山では、本松寺の守護神として、御本尊(本堂)の乾(西北)に安置し、毎朝、天下泰平・国土安穏と檀信徒並びに参拝者の所願成就を祈願して居ります 
 妙見尊は開運妙見大菩薩と申しまして、運勢を切り開いて、信奉する人を助けようとする尊神様です


   
妙見社 枯山水の庭園  亀の水

豊臣家や石田光成の家臣だった島清興(島左近)を祀ったという「妙見尊」が、
明石藩に仕えた子孫により本松寺に奉納され、この神社が本松寺の鎮守社となったとのこと。
明石・亀の水は、人丸山から涌き出る霊泉が亀の口から流れ出ている。

   
 天文科学館を望む  

この日は月曜であったので、天文科学館は休みであった。
山陽電鉄「人丸前駅」横の高架下には両馬川旧跡がある。

 両馬川旧跡(りょうまがわきゅうせき)
一、寿永三(1184)年二月、一の谷の戦に敗れた平家軍の通過地である。

一、平忠度(たいらのただのり)が岡部六弥太に追いつかれ、二人の馬が川をはさんで戦ったので「両馬川」という名前がついたと伝えられている。

明石市教育委員会

寿永三年(1184年)の一の谷の合戦において、平家方の平忠度(たいらのただのり)と
氏方の岡部忠純(岡部六弥太)が両馬川で戦った。この戦いで平忠度は討死。
平忠度は清盛の異母弟
   
山陽電車人丸前駅   マンホール

明石は、日本の時刻の基準となる、東経135度子午線が通る「日本標準時のまち」
「時のまち」として全国に知られている。これは、明治19(1886)年に世界の標準時
であるイギリスのグリニッジからちょうど135度(=9時間の時差)にある位置上の時刻を、
日本の標準時として定めたものである。子午線標識の最寄り駅は山陽電車人丸前駅。

   
   日本中央標準時東経百三十五度子午線通過標

国道2号に立つ子午線標識(日本中央標準時東経百三十五度 子午線通過標)は、
昭和3年の天文測量で定められた位置(現在の子午線は約10メートル東側)にある。
なぜ明石氏が選ばれたかは明石市を通る東経135度が選ばれたのは「15」で
割り切れるちょうどよい数字だったことが理由になる。地球の一周360度を24時間で割ると
15度となり、経度15度ごとに1時間の時差があることになる。東経135度では世界標準時
(経度0度)からちょうど9時間(135÷15)の時差となるが、東京だと少し東側を通る東経140度
では9時間20分という中途半端な時差となってしまう
子午線通過標は2009年3月より、調査のためとして標識北面の覆いが透明アクリル板に
貼り替えられ、往時のコンクリート製の標識を見学できるようになっている。

統計135度上には京都府京丹後市、兵庫県淡路市、和歌山県和歌山市がある。なぜ明石が
選ばれたかは、真っ先に標識を立てたため、「早い者勝ち」的に認知されるようになった。
世界の時刻を決めた国際子午線(しごせん)会議は1884年におこなわれ、その2年後に
日本標準時は「東経135度」と定められた。この時点ではどの「都市」かは
定められてはいなかったため、明石市では1930年に小学校の
先生たちがお金を出し合って東経135度上に標識を立てた
その後の1960年には135度上に天文科学館を設立し、不動の地位を得ている。