秋田
2015年10月9日
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キャッスルホテルに向かう |
キャッスルホテル |
秋田のキャッスルホテルで研修があり、終了してから、秋田の観光をし、秋田を満喫し、次の日に角館を見て回った。
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なまはげの太鼓 |
なまはげ |
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姫御膳 |
千秋美術館 |
研修終わって、翌日、切符の切り替えをしてから、お昼に姫御膳を食べる。
秋田名物のいぶりがっこや稲庭うどんがついていた。
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秋田美術館 |
エントランスホールのトップライト |
秋田美術館には、藤田嗣治「秋田の行事」があり、訪れた。2Fの大壁画ギャラリーで壁画の細部を近くで鑑賞し、
3Fの吹きぬけからは、壁画全体を鳥瞰することができる。この美術館は安藤忠雄設計事務所による建築である。
大壁画「秋田の行事」は、.昭和12年当時の秋田の様子が生き生きと描かれている。この壁画は、
平野家の米蔵で製作され、縦3m65p、横20m50cmという巨大なキャンパスに15日間で描き上げたとのこと。
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らせん階段 |
三角屋根の 旧秋田県美術館もみえる |
エントランスホールは、らせん階段になっており、階段には、壁からの支えや柱がなく、不思議な空間を造りだしている。
カフェでは、ソファーに座って、千秋公園、旧秋田県立美術館方面の景色を見ることができる。
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ミュージアムラウンジ |
『プロフィル profile』 展 |
秋田県発行のフリーマガジン「のんびり」での特集をきっかけに、2013年、初の作品集が出版されるなど全国的に人気を
集める木版画家・池田修三(秋田県にかほ市象潟町出身)の作品展をしていた。少女やこどもをモチーフにした
多色刷り版画の代表作などを展示する展覧会も開催されていた。『プロフィル profile』 展である。
池田は数冊の日記を残していて、「この残った3冊の日記、焼きすてようとは思ったが強いて残した。
後に自分の歩みをふりかへるために」「これらの作品は、そのときどきの私の自画像です」と語る修三さんの姿を、
生活を、思想を、折々の言葉と作品から感じて貰うべく、本展タイトルを『プロフィル profile』としたとのこと。
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池田修三展 |
版画が並べられていた。 |
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久保田城址 |
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千秋公園は、慶長7年(1602年)から、明治2年(1869年)の版籍奉還まで、12代267年間続いた秋田藩20万石佐竹氏の居城、久保田城跡。
標高45mの神明山の丘陵上に築かれた平山城。関ヶ原の合戦で西軍石田三成に通じたとして常陸54万石から
出羽20万石に転封された佐竹義宣が、1603年(慶長8)に起工。石垣をほとんど用いず、土塁と堀をめぐらして防備を固めた。
天守は築かず、8基の2重隅櫓と2階建ての御出書院が置かれた。 明治29年(1896年)に近代公園設計の先駆者で
祖庭ともいわれる長岡安平の設計により公園として整備され、秋田県出身の漢学者狩野良知が千秋公園(当時は「千秋園」)と命名。
その由来は、秋田の「秋」に長久の意の「千」を冠し、長い繁栄を祈ったものといわれている。
昭和59年(1984年)佐竹氏15代故義榮氏の遺志によって秋田市に寄贈された。
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二の丸 |
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二の丸は、藩主が能や町踊りを上覧したといわれる広場で、売店では土産品や千秋だんごが売られている。
二の丸から本丸への上がり口に、長坂門の開閉や城下の警備を担当した物頭の詰所で、城内に唯一現存する役所建物の
御物頭御番所がある。その上段には、木造2階建て瓦葺きの櫓門である久保田城表門が構えている。
本丸には、明治維新の激動期を生きた最後の秋田藩主・佐竹義堯公の銅像が凛と立っており、加藤清正が朝鮮から
持ち帰ったと伝えられる舟形の手水鉢を備える茶室宣庵もある。。
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標識 |
佐竹家家紋「月印五本骨軍扇」 |
佐竹史料館は、この千秋公園のなか(久保田城二の丸)にある。公園内には、見張り場や武器の保管庫としての役割を持っていた
御隅櫓(おすみやぐら)や、物頭の詰め所であった御物頭御番所(おものがしらごばんしょ)などがあり、
これらの施設と連携して佐竹氏関連の資料を展示するとともに、秋田の藩政時代を紹介している。
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佐竹義榮氏像 |
長坂門跡 |
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御隅櫓(おすみやぐら) |
久保田城表門 |
久保田城表門は、二ノ丸売店脇の長坂を上がりきった本丸に位置し、久保田城本丸の正門。
本丸の玄関口として警備上からも重要な地点とされており、南側には門の警備を担当する「御番頭局」、
門の下手には侵入者を警戒する「御物頭御番所」を置いて厳重な守りを固めていた。
この門は、絵図などの文献資料や発掘調査の成果をもとに、平成11年から2カ年計画で再建したもので、
構造は木造2階建て瓦葺きの櫓門で、20万5千8百石の正門にふさわしいものとなっている。
櫓とは、見張り場としての役割と「矢倉」すなわち武器庫としての役割を持っていた。
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御物頭御番所 |
キャッスルホテルがみえる |
御物頭御番所は、久保田城内に唯一現存する藩政時代の役所建物であり、宝暦8年(1758)から安永7年(1778)の間に
建築されたものと推定されている。 久保田城内のニノ門(長坂門)の開閉と城下の警備、火災消火を担当していた
物頭(足軽の組頭)の詰所
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佐竹義堯公銅像 |
御隅櫓(おすみやぐら) |
第12代秋田藩主佐竹義堯〈文政8年(1825年)〜明治17年(1884年)〉は、近代秋田を築いた最後の藩主であり、
戊辰戦争では、新政府方に属して戦いました。明治維新の激動期を生きた象徴的な人物。
御隅櫓(おすみやぐら)に入ってみた。開館時間が16時半までであって、時間が過ぎていたが、東京から
来たと話すと、10分だけならいいよと言われて入らせていただいた。3階が展望室になっていた。
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展望室から秋田市内 |
大平山 |
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参勤交代・大名行列の模型 |
幕府は原則として、大名の生活の場を江戸1年、国元1年とし、外様大名の場合は4月を交代期として、
2年に1回の割合で、江戸と国元を往復させた。これを参勤交代という。 この行列は、藩の石高に応じて随行する
人数なども決められており、それにかかる費用はかなりの額にのぼり、佐竹氏のような外様大名は、江戸から離れた地に多く、
それだけ費用も日数もかかった。華やかな大名行列の陰には、幕府による諸大名の経済力削減の目的が込められていた。
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帯曲輪門跡 |
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本丸北側の帯曲輪門跡は、土塁で築かれた久保田城の面影がよく残っている。
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川反(かわばた)の路地 |
ちゃわん屋 |
ちゃわん屋という店で、きりたんぽ鍋などの秋田料理を食べ、太平山「遊神」というお酒を飲む。おちょこ一杯900円である。
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えごの説明 |
えごとさんまの刺身 |
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ルートイン |
秋田駅 |
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秋田駅構内 |
新幹線 |
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秋田新幹線 |
吹奏楽と観光大使 |
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なまはげ |
なまはげと記念撮影 |