秋田城 
2025年8月20日
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| 漆紙文書 |
10号漆紙文書(書状) |
秋田城は奈良時代から平安時代にかけて東北地方の日本海側
(出羽国(でわこく))に置かれた大規模な地方官庁
蝦夷(えみし)の人々が暮らしていた東北各地に同じように造られた
律令国家の地方官庁の遺跡は「城柵官衙遺跡」(じょうさくかんがいせき)と
呼ばれており、秋田城はその中で最も北に位置している。
天平5年(733年)に、秋田村高清水岡(たかしみずのおか)に
遷(うつ)された当初は「出羽柵」(いではのき)と呼ばれ、
天平宝字(てんぴょうほうじ)4年(760年)ごろに秋田城と呼ばれるようになる。
奈良時代には出羽国の政治を行う「国府」が置かれ、また津軽(青森)
・渡嶋(わたりしま)(北海道)のほか、大陸の渤海国(ぼっかいこく)(中国東北部)
など対北方交易・交流の拠点としても重要な役割を果たしていたと考えられる。
| 10号漆紙文書(書状) |
| 竹田継□が秋田城に宛てた書状(手紙)。内容は、「(竹田さんは)南大室(現在の山形県)へ鍋を一つ取りに出張に行ったが、出張先で何か他に用事があったような気がするので教えて欲しい。この手紙は5月6日の早朝に蚶形(きさかた、現在の秋田県旧象潟町)の駅家(うまや)から秋田城へ手紙を出した」というもの。「蚶形(きさかた)の駅家(うまや)」は延喜式に記される駅家の一つ。「蚶形の駅家」の遺跡は見つかっていませんが、そこから出した手紙があるので、きっとどこかにあるはずです |
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秋田城の模型 |
かつて、日本海を挟んだ現在の中国東北部には「渤海国(ぼっかいこく)」が
存在し、秋田城は渤海国との交流の窓口となっていた。平成9年(1997)に
復元された外郭東門は、秋田城創建時の姿を再現している。
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中央公園連絡橋 |
政庁は秋田城の中枢部で、東西94メートル、南北77メートルに区画された部分。
一番大きな建物は正殿と呼ばれる建物で、その前面に空間地があり
、広場となっている。この広場で、国内外からの使節を迎えた儀式などを執り行われた。
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| 秋田城内郭東門 |
正庁復元図 |
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| 正庁東門と復元された場内東大路 |
秋田城外郭東門 |
正庁から外郭東門に向かう道を場内東大路という。
奈良時代から平安時代にかけての日本は、東アジアの諸国と交流を行っている。
遣唐使が有名だが、秋田城は現在の中国東北部にあった
渤海国(698年から926年)との交流の窓口になっていたと考えられている。
渤海国は神亀(じんき)4年(727年)から延喜19年(919年)まで計34回の使節を日本に派遣している。
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| 古代水洗トイレ |
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奈良時代の水洗トイレ遺構が発見されている。このトイレの
沈殿槽内の土からは、ブタ食を食習慣としていないと感染しない
寄生虫の卵(有鉤条虫卵)が発見され、トイレの使用者は
大陸からの外来者で、ブタの飼育が盛んな渤海の人たちである
可能性が高いと言える。このように秋田城は大陸との外交窓口でもあり、
重要な施設だったと思われる。
古代水洗トイレは、沼地の付近に立てられています。排泄物は沈殿槽にいったんたまり、
上澄みだけが沼地に流れる構造になっている。自然地形をうまく利用した奈良時代の最新鋭のトイレ
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柄杓で水を流す。 |
8世紀中頃につくられ、8世紀末から9世紀初めまで機能していたと考えられる
奈良時代のもの。平安時代になると取り壊されたが、内部も詳細に復元されている。
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| 見えないように柵がある。 |
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| 井戸 |
井戸 |
水は古代から涸れることなく今もこんこんと湧き出ている。