2025年6月4〜5日
6月4日の母葬儀の終了後、渥美半島に立ち寄る。
旅館について、時間があったので、伊良湖岬まで行き、夕陽を観に行った。
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| 糟谷磯丸(かすや いそまる) | 伊良湖遊歩道歌碑 |
糟谷磯丸は、明和元年(1764)5月3日〜嘉永元年(1848)5月3日。
江戸時代末期の歌人。伊良湖の漁師であった磯丸は、母の病気が
治るようにと毎日お参りしていた。伊良湖明神(神社)で和歌を知る。
既に30代半ばであったが、このころはまだ文字の読み書きができなかった。
「無筆の歌よみ」と呼ばれた。磯丸に歌を詠んでもらえば災難から救われるという
噂が立つようになり、病気の治る歌をはじめ、安産、家内安全、商売繁盛、
大漁祈願、魔よけ、虫よけなどの「まじないの歌」を数多く求められて詠んでいる。
磯丸の歌は、郷土の渥美半島はもとより県内各地に広く伝わった。
田原市伊良湖小学校、田原市百々(どうどう)神社、新城市十二所神社、
新城市鳳来寺山岩本院跡、豊川市大榎観音堂跡、岡崎市宮崎神社、
岡崎市石座(いわくら)神社、高浜市春日神社、 豊田市一本松峠など、
三河地区を中心に多くの歌碑が建つ。恋路ヶ浜から伊良湖岬灯台を通る伊良湖遊歩道は、
「いのりの磯道」と呼ばれ、糟谷磯丸が詠んだ70首の歌碑が建立されている。
「明神の石のしゃだんでながむれば
おきで漁師が船をこぎます」 中山小学校
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| 伊良湖岬灯台 |
灯台は昭和4年設置。高さ15m。光りのとどく距離:約23Km。
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| 神島 | 伊勢湾海上交通センター |
伊勢湾の入口にあたる伊良湖水道航路は、伊良湖岬と神島との間にあり、
航路幅が狭く周辺には浅瀬も点在する海上交通の難所。船舶の往来は1日に
約100隻。大型船が集中する朝夕は、管制官が特に緊張する時間帯であるとのこと。
船舶に対する注意喚起や気象の現況など、航行の安全に必要となる情報を提供する
運用管制官。海上物流を支える縁の下の力持ち。それが海上交通センターの使命である。
展望台があるのかなと思い、柵に近寄ると、入れないという放送が入った。
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| 伊良湖岬灯台 | 夕陽 |
夕陽が沈むまで海岸線で座りながら眺めていた。
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| 煮魚定食 | 朝食 |
魚と貝のうまい宿「玉川」で宿泊。食堂で夕食。刺身盛り合わせをつまみにする。
のどぐろの刺身もおいしかった。大アサリの味噌汁がついた煮魚定食を食べる。
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| 日本の百選記念モニュメント | 恋路ヶ浜 |
次の日は恋路ヶ浜まで行く。恋路ヶ浜」は、伊良湖岬灯台から
日出の石門まで約1kmにわたって続く、白く美しい砂浜
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| 恋人の聖地モニュメント 幸せの鐘 | 伊良湖ビューホテルをバックに記念撮影 |
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| 「片浜十三里」 | 椰子の実記念碑・歌碑 |
階段を降り切ると、ごつごつした岩場があり、その上に登ると長い砂浜「片浜十三里」が見える。
日出園地(ひいえんち)には椰子の実記念碑、歌碑が立っていた。
明治31年夏、当時東京帝国大学2年の学生であった柳田国男(23歳)が、
病気療養のため伊良湖岬を訪れた。この時、柳田は海岸に漂着した椰子の実を拾った。
帰還した後、柳田は親友である島崎藤村に、椰子の実の話をした。藤村は強い
刺激を受け、柳田の話をもとに「椰子の実」の詩を書いた。すなわち、「名も知らぬ
遠き島より流れ寄る椰子の実一つ」で始まる有名な詩である。昭和11年7月、
NHK大阪放送局の国民歌謡の担当者が、作曲家である大中寅二に「椰子の実」の詩に
曲をつけるように依頼。こうして歌曲「椰子の実」は誕生し、ラジオで全国に放送された。
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| 沖の石門 |
高台にある「日出園地」から「沖の石門」から見ることができた。
「沖の石門」をベストな角度で眺めるには、西側へ向かう道を進むのではあるが、
今回は工事中になっていて、入口が封鎖されていた。
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| 日出石門(ひいのせきもん)岸の石門 | 日出石門(ひいのせきもん)」 |
日出の石門は、約2億年前の海底にできたチャートという岩。地殻変動で隆起し、
太平洋プレートの移動でこの地に運ばれてきました。うねるような形は激しい
地殻変動の跡であり、洞穴は太平洋の荒波の浸食によってできたもの。
近くで見ると、大きくて見ごたえがあった。
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| 沖の石門 |
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| 蔵王山展望台 |
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| 北の三河湾側の眺め | 東の豊橋方面の眺望 |
東の豊橋側は平野だが、西は低山が続き先端の伊良湖岬は見えず。
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| 北の三河湾側の眺望。 三河湾に浮かぶ姫島、対岸は蒲郡 |