名護屋城 

2022年9月23日

   
2階展示室  常設展示室の展示物。 

   
 「安武船」 黄金の茶室 

安武船(あたけぶね)は現在で言う戦艦で、当時の日本水軍の最強の軍船!船にお城が乗る。
金銀の国内算出量が飛躍的に増大したこの時代、天下人・秀吉のもとには、莫大な富が集まる。
秀吉にとって、「黄金の茶室」は自らの権威と財力を見せつけ、見る者を圧倒する、とっておきの「舞台装置」だった。
黄金の茶室は、京都の御所や大坂城などで使用されている。そして天正20(1592)年、
名護屋城に着陣した秀吉は、この茶室を運ばせ、茶会や外国使節の応接に使用している。

   
   

   
2階に続く階段にあるモニュメント。  名護屋城入口 

   
かげ溜池   名護屋城大手口

肥前名護屋城の石垣には、要である隅を落としたり、Vの字に壊した痕跡が見られる。

   
   本丸跡

名護屋城は豊臣秀吉の朝鮮出兵(文禄・慶長の役)に際して出兵拠点として築かれた城である。
1592(文禄元)年の開戦から秀吉の死で諸大名が 撤退するまで、7年の間大陸侵攻の拠点となった。
周囲には130以上に上る諸大名の陣屋が構築され、全国から20万人を超える人々が集まり、
繁栄したといわれている。現在では、土塁、石垣、曲輪、天守台の遺構が残るのみである。

   
 太閤の碑  

「太閤が睨みし海の霞かな」正岡子規の門人青木月斗の句である。
この地で太閤秀吉が夢見た大陸進出への思いを俳句にしている。

   
 天守台跡  

宣教師のルイス・フロイスが「絶望的だけど従わざるを得ない、老関白への
屈服と従順さは異常だ」と記すほど、秀吉の権力は圧倒的だった。
厭戦(えんせん)ムードが高まるも戦いは延々と続き、慶長3(1598)年8月の
秀吉の死をもってようやく終結。多くの家臣を失い疲弊しきった諸大名は、命からがら撤退したのだ

   
 天守台跡  

二度にわたる朝鮮出兵は、諸大名の経済力や軍事力に大きな負担を与え、
豊臣政権の終幕を早めたといわれる。名護屋城に在陣したものの渡海しなかった
徳川家康は結果的に力を温存することになり、豊臣政権の亀裂に
乗じて地位を確立し、政権奪取へと突き進むことになる。

   
呼子大橋もみえる。   

   
 玄海灘も見渡せる  名護屋城跡並びに陣屋跡

城の周囲には130以上もの諸大名の陣屋が構築され、全国から
20万人を超える人々が集ったといわれる「幻の名城」。
豊臣秀吉の死後に破壊され、今も壊された石垣が残っている。

   
   

江戸時代に入ると、名護屋城が唐津藩に領有されるにともない、
初代唐津藩主・寺沢広高によって、名護屋城天守は破却
された

   
 原発がみえる  

名護屋城が役目を終えた後、この地域はもとの漁村に戻り、逆にそうなったからこそ、
その後も大きな開発が進むことなく名護屋城跡は当時のままの姿を残しているともいえるのかな。

   
名護屋城博物館がみえる   

   
   イカの活き作り

呼子まで行って、身が透き通ったイカの活造りを食べる。美味しい。