調布 

2020年4月26日


   
下布田遺跡   下布田遺跡(説明版)

 国指定史跡 下布田遺跡
昭和62年5月12日指定
下布田遺跡は、多摩川の沖積地をのぞむ、崖線にいとなまれた縄文文化時代終末ごろの遺跡である。従来、現地では子供用の甕棺墓や土壙墓のほかに、600余個の河原石を約64㎡にならべた方形の配石遺構が発見され、その中央に出土した長方形の土壙には、長さ38㎝の石刀が副葬されていた。おそらくこれらの遺構は墳墓の集合したものであろう。
また、現地では、日常生活に使用された多量の土器や石器のほかに、呪術的な意味を有する石棒や土偶・土版・石冠なども出土している。特に赤く塗った薔薇の花を思わせる土製耳飾は美術品としても優れ、昭和54年国の文化財に指定された。
この遺跡は、縄文文化時代晩期の社会生活や信仰・習俗を知るうえで、わが国でも数少ない重要遺跡の一つにかぞえられ、文部省告示第50号により、国の史跡として指定された。
昭和63年2月28日 調布市教育委員会

郷土博物館の分室展示コーナーでは、市内の遺跡発掘調査で
発見された旧石器時代から近世にいたる出土遺跡を数多く展示している。
下布田古墳群は、平成13年3月からの土地区画整理事業に伴う
発掘調査によって新たに発見されたものを含め13基が確認されている。
これらの古墳は、5世紀前半に造られ始め、7世紀前半まで続いたことがわかる。
「下布田古墳群」は、多摩川中流域左岸の立川段丘縁辺部に立地しているが、
この地域は南東から北西方向にかけて僅かな段差があり、これは古多摩川によって
形成されたと考えられています。このうち古墳群は北側の高位段丘面の縁辺部に
沿う形で形成されており、低位段丘面には古墳時代後期集落が広がっていたのである。

   
 下布田遺跡  狐塚古墳

現在、狐塚古墳(下布田6号墳)が広場として整備されている。地元で「狐塚」と
呼ばれてきたこの古墳は、群中でも最終末期に造られ、径44m、幅3.7~9mの
周溝がめぐり、南東部に地山を掘り残して陸橋を造出した円墳である。
埋葬施設は奥壁に切り石を使った河原石積横穴式石室である。築造時期は7世紀前半と推定

   
 下布田六号墳(狐塚古墳)及び出土品  狐塚古墳 
下布田六号墳(狐塚古墳)及び出土品
所在地 布田六丁目五十三番地一~四
指 定 平成二十六年三月十四日 
下布田六号墳(狐塚古墳)は、多摩川沖積地を望む立
川段丘縁辺部(府中崖線)に立地する下布田古墳群内に
ある古墳です。下布田古墳群は、五世紀前半から七世紀
前半にかけて造営された古墳群で、これまでの調査で円
墳十七基が確認されています。このうち六号墳は、古墳
群の最終段階、古墳時代終末期にあたる七世紀前半に築
造された円墳で、地元では「狐塚」と呼ばれていました。
昭和二十年代前半には墳丘の大半を削平され、わずかな
高まりを残すだけとなっていましたが、平成十二年度、
布田六丁目土地区画整理事業に伴い発掘調査が行われ、
周溝と主体部が確認されました。
 古墳の規模は、周溝の内径が約四四m、周溝幅を含め
ると約六〇•五mを測り、終末期古墳としては多摩川流域
で最大級の規模を誇ります。墳丘中央部には主体部とし
て横穴式石室が残されています。石室は、奥壁に凝灰岩
質砂岩切石を、側壁に河原石を積み上げ構築し、床面に
は河原石を敷きつめています。切石と河原石を併用した
石室は類例が少なく、特異な構造です。石室内からは副
葬品として鉄製大刀三点、小刀一点、鍔二点、刀子一点、
鉄鏃一点が出土しています。
 下布田六号墳は、墳丘や石室の規模、副葬品の内容な
どから、古墳時代終末期における多摩川流域の盟主墳に
位置付けられ、その被葬者は在地豪族の系譜を引く有力
首長層と考えられます。調布市域のみならず南関東地方
の古墳時代終末期の様相を理解するうえで欠かすことの
できない重要な古墳です。
 平成二十七年三月二十七日
            調布市教育委員会


   
狐塚古墳   狐塚古墳 竣功記念

   
 椿地蔵 常性寺 子育て地蔵尊と摩尼車 

椿地蔵の傍らには調布市天然記念物のシロハナヤブツバキがある。
常性寺の寺伝によれば鎌倉時代の創建で、古くは多摩川沿いに
堂塔伽藍があったけれども、1596年に現在地へ移建された。
その後、中興の法印祐仙が上総国成田山新勝寺より
成田不動尊を勧請した。以来、調布不動尊と称されている。

   
 常性寺の本堂 薬師堂  馬頭観音塔

常性寺の本堂には、薬師如来像が安置されている。馬頭観音塔は、文政7年(1824年)の創建。

   
常性寺の池  国領神社 

国領神社は、国領宿の鎮守であった国領神社(旧称・第六天社)と、
現社地にあった八雲神明社を昭和38年(1963)に合祀したものである。
境内は御神木・千年乃藤の藤棚が広がり、ゴールデンウィーク頃の
花の盛りには、多くの花見客が訪れる。国領神社の御神木であり、
樹齢500年ともいわれている。千年乃藤と呼ばれて親しまれており、
現在は高さ約4メートル、面積約400平方メートの鉄骨性の藤棚が
しつらえられており、棚一面に藤の枝が広がっている。見ごろを迎え、
本来なら、藤まつりが開催される予定だったが、新型コロナウイルスの
影響で中止になっていた。見ることはできるので、何人かは参拝者がいた。

   
拝殿   藤棚

國領神社は神産巣日神(かみむすひのかみ)、天照大御神(あまてらすおおみかみ)、
建速須佐之男命(たけはやすさのおのみこと)をお祀りし、国領町、
八雲台、染地の氏神さま。千年乃藤と呼ばれる御神木がある神社である。

   
 藤棚  藤棚

藤は「幾歳月を経て今日もよく伸び茂る」ことから、延命・子孫繁栄・
商売繁栄・万事繁栄に通じるとされ、「藤(フジ)」の字は不二、無事に
通じることから、地元では同神木を畏敬の念を込めて「千年乃藤」と呼ぶ。

ちなみに、神産巣日神(かみむすひのかみ)は、天地開闢(てんちかいびゃく)の時、
天之御中主神(あめのみなかぬし)、高御産巣日神(たかみむすび)の
次に高天原(たかあまはら)に出現した造化三神の一柱である。万物の創造、
生命の生成やその生成力で復活と再生をつかさどる神である
天照大御神(あまてらすおおみかみ)は、古事記によると、伊邪那岐神(いざなぎ)が
黄泉国から逃げ帰って禊をした際、左目をすすいだときに生まれた神である。
月読命(つくよみ、右目をすすいだときに生まれた神)、須佐之男命(すさのお、
鼻をすすいだときに生まれた神)とともに三貴子(みはしらのうずのみこ、さんきし)
といわれ尊貴な神である。建速須佐之男命(たけはやすさのおのみこと)は、
古事記によると、伊邪那岐神(いざなぎ)が黄泉国から逃げ帰って禊をした際、
鼻をすすいだときに生まれた神である。神名にある「建」「速」は、勇猛さを意味し、
「スサ」は荒ぶ(すさぶ)、凄まじい(すさまじい)などに通じる言葉で、粗暴な行いや
その名の通り猛々しい神とされているが、農業の神、穀物の神、
五穀豊穣、厄除け開運、縁結びの神でもある。


下布田遺跡・調布市郷土博物館分館
2020年9月5日

   
   

   
   植生の説明