田園調布 

2018年1月21日

NHK番組のブラタモリで、田園調布を紹介していたので、早速街歩きをしてきた。

   
 駅舎は凱旋門に似ている。  田園調布駅

田園調布は、今日でこそ、高級住宅街になっているが、江戸時代は人はあまり住んでいなかった。
田園都市株式会社が100年前に開発を進めた“元祖・新興住宅地”である。
田園都市株式会社は後の「東京急行電鉄、東急不動産」になる会社。
イギリスの田園都市構想を参考に近代的に開発された住宅地を作ろうと提唱したのは、
明治財界の大御所、渋沢栄一。その息子の渋沢秀雄が、都市計画と設計を担当して
今日の田園調布の基盤ができたとのこと

 
 田園調布周辺の地図

住宅街と商業地域とを、駅を挟んで分けている。田園調布駅を中心に、西側に扇状の
特徴的な区画を創りあげている。
パリの凱旋門の周辺の街並みにも似ているとのこと。
近代化を推し進める明治政府が「田園都市」+「調布」で「田園調布」という名前にしている。
田園都市とは、ヨーロッパのガーデンシティーの日本語訳である。
都会を離れ、郊外に庭を大切にする街を作る計画を立てたようである。

   
左右のの放射状に延びる直線の道  田園調布駅にある円の中心点 

放射状に道路が伸びて、それを横切る道が同心円の半円カーブを描くようになっている。
このような同心円状の道路は、「エトワール型道路」と呼ばれる形式で、パリの凱旋門広場を
イメージしているらしい。田園調布の設計者は、矢部金太郎という方で、
渋沢秀雄(渋沢栄一の四男)が、エトワール構想を依頼したといわれる。

   
 西側の放射線状の道路 道がカーブしている 

駅を中心とした放射状の縦の直線と、横の道の半円を組み合わせた町割りになっている。
道がカーブしているため、両側の緑が目に入り、落ち着く景観。
瀟洒典雅(しょうしゃてんが)、上品で垢抜けた様子が、まちづくりの指針となった。さらに、カーブがあるため
先が見えず、もっと歩いてみたいと思わせる遊び心も背景にあったとブラタモリでは、説明している。
カーブ派は渋沢秀雄、直線派は豊臣秀吉とタモリはテレビでコメントしていた。

   
 カーブと緑の景観  高級住宅

街を歩いていると、高級住宅街になっており、コンビニやスーパーもない。坂が多くて、
高齢者には買い物など不便のような気がする。みんなお手伝いさんが動いてくれるのかな。

   
高級住宅   緑に囲まれ、高台に住宅

   
ゴミ出しの箱  高級車 

街はきれいになっていたが、ゴミ出しの箱もあまりない。ただ、目についた箱が置かれていたので、写真を撮る。
それぞれの家には高級車が置かれており、2台3台持っている家も多かった。やはりお金持ちが多い。

   
   

   
 交番  北欧ビンテージ雑貨の Sticka

北欧ビンテージ雑貨の Stickaは、約100年前、開発が始まった当時から変わらない建物。
2LDK平屋建て。分譲開始の頃の田園調布に多くみられた建物。

   
 幼稚園  坂道

とにかく坂が多い。

   
坂道   兵隊屋

兵隊屋の創業者は望月政晴という方。望月さんは、元陸軍近衛師団に所属された方。
軍隊から帰還後に蕎麦屋へ修行に行ったことからその名が付いた
田園調布駅の西側に位置する、半円状の台地。台地は、高度があり、地震に強いという
メリットもある。田園調布は、軍人に人気のある町だった。きっかけは関東大震災。軍人は、震災の際に
すぐに行動できるよう、地盤の強い場所を求めた。こうした中で兵隊さんを相手に商売を始めたのが、
「兵隊屋」という店である。また、1960年兵隊屋を舞台にしたスーパーカブの広告が掲載。
『ソバも元気だ おっかさん』篇。「なんと云っても この店にはスーパーカブがあるのが魅力です 
出前迅速、そばはのびないとあって、お得意さんはガ然ふえました 片手運転もOKの素晴しい性能・
ボクだって働きがいがあります」という文章。ホンダのスーパーカブの宣伝である。

   
 兵隊屋の店内 天せいろ(大盛) 

軍人も住むようになり、治安もよくなるだろうと有名人や政治家たちが住むようにもなったともいわれる。
昼近かったので、「兵隊屋」でお昼を食べることにした。天せいろを注文。美味しい。
ブラタモリ放送翌日のためか、まだ11時半だったが、店内はいっぱいであった。

   
   

   
 宝莱公園 宝莱公園 

古墳があるという宝莱公園に行き、公園と古墳巡りをしながら、浅間神社方向に向かった。

   
宝莱山古墳  宝莱山古墳(南西から)

宝莱山古墳は、多摩川台公園の西端にあたる。4世紀前半に造られた前方後円墳で、全長97mと推定。
右が前方部。左の後円部の3分の2は、は昭和9年に宅地開発などで破壊され、その際発見された
粘土槨から多くの副葬品が発見された。(その時点まで古墳という認識はされていなかったらしい)

   
 教会 五号墳 

古墳の形は、上から見るとそれらしきはわかるが、横から見てもわかりにくい。

   
 公園から多摩川を望む  公園から多摩川を拡大

多摩川台公園のある台地は武蔵野台地の南端部にあたり、国分寺崖線に位置するために多摩川との高低差は大きい。

   
多摩川台古墳群の案内  武蔵小杉駅周辺のビル群 

大田区の田園調布周辺から世田谷区の野毛にかけて、荏原台古墳群と総称される大小50基の古墳がある。
その中でも東急多摩川駅近くにある多摩川台公園には、亀甲山古墳や宝莱山古墳と、その間に
多摩川台古墳群と呼ばれる8基の古墳があり、周辺の古墳と合わせて田園調布古墳群とも総称される。
 亀甲山古墳は柵で囲まれて入ることはできないが、宝莱山古墳は、公園の一部になっている。
公園の東端(田園調布駅側)が宝莱山古墳なので、遊歩道を歩くことが古墳の上を歩くことになる

   
 下村宏のレリーフ 2号墳 

下村宏は、1945年8月15日の玉音放送の時の内閣情報局総裁で、本放送の前後に言葉を述べ、晩年を田園調布で過ごした

   
展示室と併設の公園管理事務所 古墳外観 

多摩川台公園の入り口にある古墳展示室内に、ほぼ四世紀から七世紀にかけて作られた
古墳という巨大な墓が実物大のレプリカで再現されている。

   
宝莱山古墳(西岡37号墳 )  浅間神社古墳

宝莱山古墳(西岡37号墳)は、多摩川下流域で最古(4世紀前半)・最大(全長100m)の前方後円墳だったが、
昭和期の宅地開発と土取りで後円部のほとんどが削られたが、その際に埋葬施設の粘土槨が
発見され、鏡(四獣鏡)や紡錘車形碧玉製品、大刀や槍、勾玉・管玉・丸玉などの装身具が出土した。
浅間神社古墳から出土している馬形埴輪と鹿形埴輪のレプリカも展示してあった。

   
 亀甲山古墳 亀甲山古墳 

亀甲山(かめのこ)古墳は、前方後円墳で、昭和3年2月7日指定の国指定遺跡。
荏原台古墳群の中でも最大で、全長107m、前方部の長さ41m、後円部の直径48m、
高さ10mの規模を誇る。なお、後円部の裾の一部は浄水場の建設に伴い削られている。
現在未発掘の状態で出土品もなく正確な築造年代は不明ではあるが、推定では4世紀後半とされている。
「亀甲山」の古墳名は、横から見た墳形がカメに擬されたことに由来する。

   
武蔵小杉方面がみえる。   調布浄水場跡

調布浄水場は、1918(大正7)年〜1949(昭和24)まで多摩川の水を汲み上げて使用された。

   
「多摩川ダイナー」 オープンテラス  浅間神社 

   
 大祓詞(おおはらいのことば)  白糸の滝

黒い部分は車輪になっており、大祓詞(おおはらいのことば)が書かれている。
大祓詞とは、穢れ(けがれ)を祓うための祝詞(のりと)。神聖なる境内に入る前に、
この車輪をくるりと一周回し、身を清めるということかな。回してお祓いをして、進む。

   
「小御岳石尊」  「食行身禄之碑(じきぎょうみろくのひ)」 

「小御岳石尊」は、富士山五合目にある小御岳神社に由来するもの。
食行身禄とは、現在の富士山八合目で断食修行をし、浅間信仰の団体・富士講の祖となった人物。
石碑の文字は、勝海舟によるもの。同社のある大田区は、勝海舟夫妻の墓もあるほど、同氏と縁の深い地とのこと。

   
 浅間神社  子産石

浅間神社で祀られているのは、「桜の花が咲き匂うような…」と言われる、木花咲耶姫(このはなさくやひめ)。
木花咲耶姫は、天照大神(あまてらすおおみかみ)の孫・瓊々杵尊(ににぎのみこと)に見初められ、
皇后となった女神。懐妊の際に貞節を疑われたことから、証を立てようと無戸室(うつむろ・戸口を塞いだ部屋)
に入り、出産の準備をしたとか。その後、産気づくと室に火を放ち、炎のなかで無事出産した…という神話が残されている。
子産石とは、海の岩が長い年月をかけて波で削られ丸くなり、ある日ぽろっと、本体の岩から
離れてできた石のこと。まるで子どもが産まれるかのごときその様子から、子産石の名前がついたとのこと。

   
 展望スペースからは眺めがよい  丸子橋

展望台からは空気が澄んでいれば、富士山も見えるが、この日はかすんでしまって、見えず。

   
東急東横線   

神社の高台からは多摩川が見え、晴れていれば富士山も見える。付近は、古墳の集中地帯。
多摩川を望む一等地には、豪族が居を構えていたのである。1500年ほど前の話

   
浅間神社の紹介   多摩川駅

鎌倉時代に源頼朝が豊島郡滝野川松崎に出陣した際、その身を案じた妻の政子があとを追って
同地付近まで出向いたとか。しかしわらじで傷ついた足が痛み、多摩川畔で治療することに。
そこで丘に登ってみた政子が目にしたのは、自身の守り本尊である浅間神社がある富士山の姿。
政子は、夫の武運を祈り、身につけていた正観世音像をその丘に安置。これが同社の興りとなっている。
浅間神社から近くの多摩川駅まで歩き、帰路に着く。