2015年4月12日
江戸東京博物館(東京都墨田区)で、大関ヶ原展が開催されていたので、行ってきた。
特別展「大関ヶ原展」 | 江戸東京博物館に向かう |
慶長5年(1600年)の天下分け目の関ヶ原合戦を制したのは、東軍を率いた徳川家康。
2015年は、元和2年(1616年)に亡くなった家康の没後400年目にあたる。この節目の年に、
関ヶ原合戦の全貌を明らかにする展覧会を開催されていた。展覧会では合戦に参加した各大名家の武具・絵画や、
当時交わされた生々しい肉声を伝える古文書等を展示することにより、その全体像を振り返っている。
さらに、今回の特徴となる最新の手法を取り入れた立体感のある映像空間によって、関ヶ原合戦の実像にも迫る。
大関ヶ原展を見た後、常設展も急ぎ足で回った。江戸東京博物館は、江戸から東京までの
文化や歴史についての資料を展示する博物館。常設展は3月28日にリニューアルをしている。
来館者の声を取り入れて模型や体験展示を増やし、タブレットを導入して外国語での案内も充実させたとのこと。
常設展は、5Fと6Fに展開される。江戸・東京の2つのゾーンに分けられており、原寸大の日本橋(旧日本橋)や芝居小屋
の中村座(正面部)の模型をはじめ、浮世絵や絵図といった収蔵物を展示されている。
江戸博物館 | 日本橋 |
家康は、1603年(慶長8)に征夷大将軍となると、江戸に幕府を開く。日本橋を中心に堀や道を設け、
江戸城の周囲に武家や町人、寺社などの居所を定めた「町割り」を行っている。
常設展の入口に当たる場所で日本橋があり、渡ったその先には、寛永時代の町人地や大名屋敷、
幕末の江戸城御殿を縮尺模型で復元、江戸城を中心とした町割りの様子がみられた。。
朝野新聞社 | 江戸ゾーンの中村座 |
朝野新聞社は、銀座にあった自由民権運動における民権派の新聞として一世を風靡した新聞社
大名屋敷 | 町人地 |
江戸ゾーンには、幕末期の江戸城御殿を200分の1で再現した模型がお目見えした。
「寛永の町人地」模型と「寛永の大名屋敷」模型が、「幕末の江戸城―本丸・二丸御殿―」模型と並ぶようにレイアウトを変更。
3つの模型を見比べて、庶民、大名、将軍ごとに住まいの違いが見比べられる。
松の廊下の模型 | 幕末の江戸城―本丸・二丸御殿― |
明暦の大火(1657年)で焼失した後、再建されなかった天守閣も色を変えて再現し、城の全体像を把握できるようにした。
模型は、幕末期の本丸と二丸(にのまる)の御殿を200分の1の大きさで復元した。
直径5・3メートルの円形で、建物の構造をいろいろな角度から見ることができる。
徳川家康像 | 徳川将軍家・御三家系図、 |
徳川家康像は説明に、「等身大と言われている」と書いてあったが、等身大とは思えないほど小さかった。
将軍徳川家と尾張・紀伊・水戸の徳川家の家系図が一つになって、養子関係なんかが良く分かるようになっていた。
大名の道具 | 大名の着物 |
女性用の駕籠 | 棟割長屋の内部 |
江戸時代、庶民の多くは長屋と呼ばれる住宅に住んでいた。
今まで部分再現(2部屋)であった「棟割長屋」模型を、1棟全体(5部屋)に拡大。
新たな部屋では、寺子屋の師匠や着物の洗い張りを生業とする女性の暮らしぶりを紹介。
この部屋の増設については実際の長屋の資料を元に設計し、住民の職業や家族構成なども様々な文献を参考にして
忠実に再現し、また、各部屋の生活道具に特色を出し、周辺施設として井戸や稲荷などを設けるなど、
江戸庶民の実生活や雰囲気をより身近に感じていただけるよう工夫しているとのこと。
棟割長屋 の内部 | お産の風俗 |
絵草子屋の店内 | 絵草紙屋 |
絵草紙屋の模型は、実在した江戸の本屋である和泉屋市兵衛の店先を実物大で再現している。
菱垣廻船 | 二八そばの屋台 |
菱垣廻船は、江戸時代後期に大坂(現・大阪)から江戸に生活物資を運んだ定期船。
魚や野菜などを桶に乗せた棒手振(ぼてふり) | 山車 |
クラシックカー | 浅草凌雲閣 |
江戸東京博物館の「東京ゾーン」の展示品で、関東大震災で倒壊した浅草の12階建て「凌雲閣」の復元模型が建つ
電気館 | ムーランルージュなどのポスター |
浅草六区にあった、電気館。活動映画を上演する映画館。当初は電気仕掛けの見世物小屋だったのが、
明治36年に日本で最初の活動写真の常設館になったそうである。この模型は、大正3年のイタリア映画
『アントニーとクレオパトラ』上映の様子を再現したもの。
下層部の木の板張りは、江戸時代の掘り抜き 井戸(地下水を汲み上げる井戸)。 その次から順に、明暦の大火(1657年)の焼土、 火災後の廃棄物、関東大震災の焼土、 第二次世界大戦時の空襲の焼土。 |
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4mの高さの地層 | 地層は語るの説明文 |
川村清雄《江戸城明渡の帰途(勝海舟江戸開城図) | 桜の花道を出る。 |
常設展示室のリニューアルを記念し、「名所江戸百景」全120枚(2代広重作画、目録を含む)を前期と後期に分けて展示されていた。
以下、関ヶ原の戦いの覚書メモである。
福島(東)対 宇喜多(西)この両軍の激突で始まった戦は(一説には、先鋒の福島隊より先に、井伊、松平の小隊が仕掛けたとも言われる)各所で激戦が展開されていく。1600年7月、石田三成 は 「徳川討伐」 の挙兵を宣言!関ヶ原という場所は四方を山に囲まれたくぼ地であり、その中に入った東軍を、山の上に布陣した西軍が完全に包囲している状況。これは誰がどう見ても 「西軍有利」。実際、後世にこの布陣図を見たドイツ軍の将校も、見た瞬間に「西軍必勝!」と叫んだそうである。
大谷吉継(西)の孤軍奮闘、黒田、細川(東)と石田三成隊の死闘など、後世に語り継がれた名勝負が続く中、一方で数々の諜報、謀略という裏側での駆け引きも密かに進んでいた。 関ヶ原には参加はするが動かない勢力。寝返りを思慮する者達。多くの武将が、疑心暗鬼の不安を抱える中、西軍の大勢力である小早川秀秋が動いた。徳川方からの調略の結果か、石田三成への私怨(三成の報告により、大幅な減封を受けた)か、味方であるはずの大谷隊に軍勢を向けたのだ。多勢に無勢の大谷隊は玉砕。圧倒的有利と言われた西軍は、これを境に大混乱に陥り、敗退した。
石田光成は「内府ちかひの条々」 を交付して諸国の大名に集結を呼びかけた。「内府ちかひの条々」 の 「内府」 とは 徳川家康 の事で、「ちかひ」 とは 「違い」、つまり間違っているという意味。その内容は、家康 が勝手に婚姻(結婚)や知行(領地)の斡旋を行ったり、無実の 前田家 や 上杉家 を攻撃しようとしたり、他にも勝手に手紙をやり取りしたとか、城の一部を無断で改修したとか、大なり小なり様々な 徳川家康 の罪状を並べたて、家康の討伐を訴えた文章(檄文)。そして、豊臣五大老の中国地方の大名 「毛利輝元(毛利元就の孫)」 を総大将として軍勢を整え、関所を封鎖して西側の大名家が 徳川軍 に参加できないようにし、さらに 大阪城 にいる東軍の武将の家族を人質に取って、必勝体制を整えて、挑んだ。しかし、石田三成 と他の 「武断派」 の武将の確執は、「朝鮮出兵」 の中で起きていたといわれる。石田光成はもともと 豊臣秀吉 の一番の側近で、秀吉に様々な報告を行ったり、秀吉の命令を各地に伝達する役目を持っていた。そのため彼によって、失敗や罪状を秀吉に報告され、処罰を受けた人が多くいたのである。それでいて自分は 豊臣家 のトップにいる彼は、とにかく多くの武将から陰口を叩かれまくる存在であった。そこで、小早川秀秋も大の 石田三成 嫌い!だった。と言うのも、朝鮮出兵の時の彼の失態を 石田三成 が 豊臣秀吉 に詳細に報告し、彼は 秀吉 におもいっきり怒られたあげく、領地も没収されていたのである。しかもそのあと、彼と 秀吉 の仲を取り持ってくれたのは他ならぬ 徳川家康 であった。
関ヶ原の戦いで一進一退の最中、徳川家康は痺れを切らし、小早川秀秋 の部隊に鉄砲隊を向け、一斉射撃した!東軍から鉄砲を撃たれたのだから 小早川秀秋 は怒って西軍に付きそうだが、秀秋 はこれにビビって 「家康が怒っている!」 と思い、あわてて寝返りの準備を始めた!徳川家康 が 小早川秀秋 が小心者であることを見越して行った催促だったとも言われている。関ヶ原が東軍の勝利に終わると、家康は寝返った小早川秀明らの軍勢に石田光成の佐和山城を攻め落とさせるとともに、大阪城を接収する必要があり、そこには豊臣秀頼親子がいて、さらには西軍の大将的な位置にいる毛利輝元がいて、黒田長政・福島正則を介して、輝元を大阪城から退去させ、開城を実現した。
この戦いで徳川についたものは、300年の栄華が待っていたし、刃向かった者に栄華が訪れるのは、明治維新まで待たないといけなかったといわれる。また、明治維新の主力になった、薩摩藩、長州藩、長宗我部系の坂本龍馬を代表とする土佐浪士たちは、すべて関ヶ原で敗者になった末裔で、その彼らが幕府を倒すパワーの源になったといわれるのも歴史の皮肉かもしれない。