天地創造の神話
2021年2月11日
江戸東京博物館入口 |
ベルリン国立博物館群のエジプト・コレクションの名品を紹介する
「国立ベルリン・エジプト博物館所蔵 古代エジプト展 天地創造の神話」
が江戸東京博物館で開催されていたので、観に行ってきた。
ベルリン国立博物館群は、ロンドン・大英博物館、パリ・ルーヴル美術館などと
並ぶ、ヨーロッパ最大級の規模と質の高さを誇る総合博物館として知られ、
なかでも、エジプト部門は、アマルナ時代の優品を筆頭に数千年
にわたるエジプト史を網羅する世界有数のエジプト・コレクションを誇る。
本展では、このベルリンのエジプト・コレクションから「天地創造の神話」をテーマに、約130点の名品を展示
腹ばいになる山犬の姿をしたアヌビス神像 |
死者を守るために木管の蓋に取り付けられ、あの世への先導者ともなった
アヌビス神の木製の山犬像。古代エジプトにおいて、この世界の始まりは、暗闇の
中にある混沌とした「原初の海」のヌンでした。ヌンから天地が創られた後も、
ヌンは世界の縁辺部に存在し続け、エジプトの周りの大海の水、ナイル川の水や
雨水などすべての水の根源と考えられていました。天地創造神話には
ヌンから創造神アトゥムが自力で出現したとするものや、ヌンの大海に浮かぶ
一本のロータス(睡蓮)から世界が創造されたとする神話があります。古代エジプトの
モチーフとしてしばしば描かれる魚とロータスは、水の世界を表現しています。
古代エジプト人が追い求めた“永遠の美”−。「神々との対話」「来世への旅」「永遠の美」とう3つの章からなる。
ヌウト女神の形のミイラの装飾 |
翼を広げひざまつく女神。棺の内側、装身具としてミイラに直接置かれたものという。
ナイルの神の像(上半部) |
ナイルの神の像(上半部) は、豊穣をもたらすナイル川の氾濫の兆候の
シンボルである両性具有のハピ神
セクメト女神座像 |
セクメト女神座像は、圧倒的な破壊力で病気を治癒し人々を救済するセクメト女神である。
ひざまずき供物を捧げるナイルの神ハピ | ライオン頭の神マヘスノ座像 |
両性具有のナイルの神「ハピ」が刻まれたレリーフ。頭に載せているのは古代エジプトで紙の元となった植物、パピルス。
青銅で出来た 「バステト女神座像」 | 日輪を戴く礼拝するマングースの小像 |
癒しの女神として人気を博したバステト女神。
「ハトシェプスト王女あるいはトトメス3世の スフィンクス像頭部」 |
ハトシェプスト女王のスフィンクス像・胸像 |
ハトシェプスト女王の胸像は付け髭を生やして男性の姿をしている。
元はスフィンクス像で、体の部分が破壊され、胸像のみが残る。
義理の息子で次のファラオとなったトトメス三世が女性の王の痕跡を
消そうとしたとも言われている。
宇宙全体を支配する秩序・摂理の「マアト」は、個々の人間が生きていく中で
遵守すべき規範・道徳として考えられていた。人間社会のリーダーである
ファラオは、社会の中で「マアト」を遵守し遂行する最高責任者であった。
異民族の侵入やファラオへの謀反に対して、ファラオは強いリーダーシップを
持って「マアト」を実践してきた
セティ1世王墓のブロック |
王家の谷にあるセティ1世の埋葬室に壁面にあった装飾の1つ。右側にアジア人が、左側にエジプト人が描かれる。
右側:ハヤブサ頭のホルスの小像】(左) 【トキ頭のトト神の小像】(右) |
デモティックが記された香炉 | アメン神官ホルの方形彫像 |
身体をローブで包み座る、珍しい立方体の彫像。穏やかで落ち着いた表情
プタハメス墓のピラミディオン |
高級官僚の墓に置かれていたとされる、花崗岩の小ピラミッド(ピラミディオン)
パタイコスの護符 |
エジプト人に人気があったという守護神パタイコスの像。
太陽賛歌が記されたネフェルヘテプのレリーフ |
太陽の船に乗るスカラベを描いた ペネヘシのペクトラル(胸飾り |
スカラベとして表現された原初の神プタハ |
スカラベの姿をした青い太陽神の両側で2人の神が見守る、ペクトラルと呼ばれる胸飾り。
古代エイジプトの象徴的な昆虫であるスカラベ(フンコロガシ)の身体に、
人の頭と手が付く・・・というなんとも得体のしれない不気味さがある。
「ネフェルティティ王妃あるいは王女の頭部」 | 青色彩文土器 |
異民族の侵入やファラオに対する謀反といったようなマアトを揺るがす
大きな事件に対しては、「善き神」であるファラオ自身が、強い
リーダーシップをもってマアトを実践していくことが必要とされていた。
一時期多く普及したとされる植物模様が描かれた土器。
右側の上部が欠けた土器にはロータスの花がある。
『タレメチュエンバステトの「死者の書」』 |
長さ4メートルを超える『タレメチュエンバステトの「死者の書」』や装飾が美しい
「タイレトカプの人型木棺(外棺)」など100点以上は日本初公開である。
『タレメチュエンバステトの「死者の書」』 | 『タレメチュエンバステトの「死者の書」』 |
死後に必要とされる知識や呪文を挿絵とともにパピルス紙に記した、
全長4mに及ぶ長大な巻物。心臓を天秤にかけるシーンなども描かれている。
死後の再生に力を注いでいる。日本の古代の人はそこまで力を注いでいない。
湿潤な気候の中で、人間は死んだら腐って亡くなるというのが分かっていたかも。
「パレメチュシグのミイラ・マスク」 | 「タバケトエンタアシュケトのカノポス容器」 |
死者は、墓地の守護神でミイラ作りの神でもある山犬頭をしたアヌビスにより、
「二つのマアト(正義)の広間」に導かれます。ここで死者の審判が行われ、
死者の心臓は天秤ばかりにかけられ、マアトを象徴する羽根と釣り合うか
計られました。古代エジプト人は考えたり思ったりする器官は脳ではなく
心臓だと考えており、心臓の役割は重要でした。
死者のミイラを作る際に取り出した内臓を収めた壺「カポノス」。
ホルス神の4人の息子ごとに受け持つ担当(胃、肝臓、肺、腸)が異なっているそう。
王の書記サアセトの人型棺蓋 | タイレトカプの人型棺・外棺」(蓋) |
死後の世界ということで、3つめのエリアは、棺関連の展示が多い。
外棺のタイレトカプの顔は、再生とオシリス神を象徴する緑色に塗られ、鬘は青色。
タイレトカプの人型棺・外棺 | 樹木の女神を描いたカーメスのステラ |
タイレトカプの人型木棺(内棺) | 有翼スカラベ形のミイラの護符 |
蓋の全長213センチという巨大な木棺。再生とオシリス神を象徴する緑色に
塗られた顔と(色褪せしているが)青のかつらが特徴で、
写真は外棺。会場には内側部分の内棺の展示もある。
ウアフのシャプテ像(右) |
ウアフのシャプテ像は、埋葬された人にかわって農作業をする人形である。
シャブティは、墓に副葬され、冥界で主人に奉仕するための召使いの像。
クウイトエンプタハの偽扉(ぎひ) |
クウイトエンプタハの偽扉(前2479〜前2191年ごろ)は、
現世と来世をつなぐ境界の役割を果たした。「戸」は異界との境界となっている。
手前に、「ラー神とハトホル女神の神官マアケルウブタハの供物台」
お酒や食べ物を入れるための窪みを持つ供物台。
「三匹の魚とロータスを描いた浅鉢」 |
古代エジプト人は「水」との結びつきが強く、世界は原初の海「ヌン」が
元という考えはあるものの、その先は複数の物語があり、「ヌン」の海に
浮かぶロータス(睡蓮)が世界を創造したとする神話もあるようだ。
浅草寺旧本堂大棟復元 | 浅草寺旧本堂大棟復元 |
鋳物場と溶鉱炉 |
江戸東京博物館の常設展にも見て回った。
常設展では、和宮展も開かれていた。
和宮は、弘化3年(1846)閏5月10日に仁孝天皇と典侍の橋本経子との間に第8皇女
として生まれた。仁孝天皇が和宮の出生を待たずに崩御したため、
父親との対面は叶わなかった。「和宮」という名は、兄の孝明天皇が
命名したものである。外祖父で公卿の橋本実久のもとで養育され、
4歳の時に孝明天皇の命により有栖川宮熾仁親王と婚約した
紺綸子地竹雌雄鶏図刺繍 袱紗 |
安政5 年(1858) 6月に日米修好通商条約が調印されると、尊王攘夷運動が過熱した。
大老井伊直弼は尊攘派を弾圧したが、桜田門外で暗殺され、幕府の権威は失墜した。
こうした中で、朝廷の伝統的権威と結びつくことによって動揺を続ける幕藩体制を
建て直そうとする公武合体論が台頭する。
幕府は、公武合体論を進めるために和宮の14代将軍徳川家茂への降嫁を奏請し、
孝明天皇の要望をいれて「鎖国」の復旧を誓約したため、これが許された。
和宮は降嫁を拒否したが、有栖川宮との婚約は破棄され、文久元年 (1861) 年
10月に江戸へ下った。そして、翌年2月に盛大な婚儀があげられた。
徳川家茂像 |
背の君、徳川家茂は、弘化3年(1846)閏5月24日に御三家の11代紀伊藩主徳川斉順の
長男として生まれた。13歳の時に13代将軍家定の継嗣に選定されて江戸城に入り、
安政5年(1858)10月25日に14代将軍となった。将軍就任時は、西欧列強の
対外的圧力や尊王攘夷運動の激化など内憂外患の情勢で、公武合体や
幕政改革をもとに難局を打開することが求められた。
和宮と家茂の結婚生活は、文久2年(1862)2月の挙式より家茂が慶応2年(1866)7月に
21歳で早世するまでのわずか4年あまりだった。家茂は公武合体を目指し、
将軍としては3代家光以来となる上洛を果たしたが、家茂の3度に
わたる上洛は2人の結婚生活をさらに短くした。
御勝土器 | 村梨子地葉菊紋散蒔絵 耳盥 |
和宮と家茂の仲は睦まじく、和歌やかんざしなどを贈りあった。家茂が上洛した際は、
和宮は夫を案じて家茂の産土神である氷川神社に祈祷を命じ、自らは増上寺の
黒本尊にお百度を踏んだ。また夫婦間での手紙のやり取りを欠かさなかった。
和宮と家茂の縁組は、公武合体を実現させるための政略結婚であったが、
ともに17歳の若い夫婦はその意義を理解し、誠実な態度でお互いを
思いやっていたのである。