調布から狛江 

2020年4月23日

調布の飛田給から、土地の古老が呼ぶ所謂ハケタ道がある。ハケタ道の
ハケタとはハケの下が田圃であったことから来ている という。この先、
布田・国領と染地の境を進み、狛江の和泉地区に入ると、 程なく
多摩川堤の旧六郷用水取り入れ口となってハケは終わる。
全長約18 kmの崖線だ。ハケのある所には湧水が生まれることから、
原始・古代の昔 より人々が住みつき、その結果として文化や歴史が生まれる。
ちなみに「ハケ」という言葉は高低差がつづく場所、つまり崖線のことらしい。

   
多摩川   多摩川

新型コロナウイルスの影響で、遠出が憚れ、密を避けるため、近場の街歩きをした。
今回は、多摩川から京王多摩川駅に出て、映画発祥の地の碑がある公園からはけた道を歩く。

   
 万葉歌碑  調布映画発祥の碑

多摩川沿いの、調布の京王相模線近くにある消防団の敷地内に、万葉歌碑がある。

次の2首が詠まれている。
多摩川に晒す手作りさらさらに何ぞこの児のここだ愛(かな)しき (東歌一巻14)
赤駒を山野に放(はな)し捕(と)りかにて多摩の横山徒(かし)歩ゆか遺らむ (巻20−4417)
防人椋橋部荒虫の妻宇遅部黒女

 万葉の歌碑わきにある説明板

調布市は地形上武蔵野台地の南縁部に位置しており、武蔵野段丘からなる雛壇上の地形は、調布の歴史の有様に常に大きく関わっております。そして、目の前を流れる多摩川は、まさに調布の文化を生んだ「母なる川」といえるでしょう。次に掲げる万葉集の二種は調布の風土を歌った代表すべき歌ではないかと思います。

多摩川に さらす手作(て(た)づくり) さらさらに
何ぞこの児の ここだ愛(かな)しき
-東歌- (巻十四)

多摩川畔の古代の農村では調(貢物)として手作(手織)の麻布が多く貢納され、その貢納の布を白くするために、清流に洗い日にさらすのは、農村の女性の共同の仕事でした。その「サラス」の音にかけて“サラサラニどうしてこの娘がこんなにもたまらなく可愛いのか”とうたっているのです。生活環境と古代多摩川の郷土色を反映させた真情に躍動を見せています。

赤(あか)駒(こま)を 山野(やまの)に放(はな)し 捕(と)りかにて
多摩の横山 徒(かし)歩ゆか遣らむ
防人(さきもり)椋(くら)橋部(はしべの)荒(あら)虫(むし)の妻宇遅(うと)部(べの)黒女(くろめ) 
(巻二十−四四一七)

天平勝宝七年(七七五)二月防人交替のときの、武蔵国豊島群出身の防人の妻の歌であります。防人は九州、壱岐、対馬の辺要を守る兵士で、当時、東国から徴集され、三年交替で、国々の役人に引率され、難波津に集結し大宰府に送られます。当時、防人は馬で行くことを許されていたので、遠い旅路をせめて馬で行かせたいという妻の心であったが、折から放牧時期であったため赤馬を山野に放しているのが捕まらず、多摩の横山の道を歩いて行かせねばならなくなったという妻の嘆きの歌であります。
(犬養孝氏の解説引用)

調布市には古代より様々な歴史が刻まれた足跡が残っております。東京調布ロータリークラブは創立四十周年記念事業として万葉歌碑を建立し、少しでも多くの人たちが調布のことを知り、ふるさとに対する愛情を持っていただけることを願っております。
東京調布ロータリークラブ贈
平成十五年十一月十日

   
映画俳優の碑  角川大映スタジオ前 

多摩川五丁目児童遊園と称する小さな公園には、調布の映画発祥の
地であり、『調布映画の碑』や『映画俳優の 碑』などが立っている。
「映画俳優の碑」には往年の映画俳優の名前が刻まれており、
「調布・映画発祥の碑」には調布における映画産業の歴史を記念して
今後の振興を図るという建立の目的が記されている。

   
大魔神   大魔神

角川大映スタジオの社屋の傍ら には映画で知られた4.5mもの巨大な大魔神像2体が立っている。

   
 古天神公園  古天神遺跡

古天神公園は延喜式にも記載された布田天神社がもともとあった所と言われ ている。
文明年間(1469〜87)多摩川の洪水を避けて、現在の調布駅 北側の地に
遷座されたという。公園は小さな丘状の地形であるが、古い地名 では
三軒山よ呼ばれていた。昔この辺りに三軒の百姓がいたことからその
名 があるという。その他、この古天神の辺りは一万年前の旧石器や
4、5千年 前の縄文時代の遺跡が発見されており、また5世紀の円形周溝墓、
7世紀の 竪穴住居跡、鎌倉・室町時代の墓など埋蔵文化財が多い所として知られてい る。
つまり、古天神公園周辺は昔の天神社の跡地というだけでなく、古天神遺跡(上布田遺跡)
として知られ、旧石器・縄文時代から古代・中世・近世の住居跡や墓の遺構などが発見されている。

   
 白山神社  

   
 羽毛下(はけした)通り  

   
   

   
郷土博物館分室  国領町六丁目の石垣(ハケ上に道路) 

調布市郷土博物館の分室の裏に広がる雑木林 一帯は下布田遺跡として知られる。

   
交差点「羽毛下橋」   染地せせらぎ散歩道の入口

羽毛下橋から『染地せせらぎ散歩道』と称する整備された遊歩道がハケ下に
沿 って走る。実はこの遊歩道はハケ下を流れる根川を暗渠にした
上に造られた もの。これよりその遊歩道に入る。遊歩道の右手には
大規模な多摩川 団地が並ぶ。うねうねと小刻みに曲がる小径には
所々ベンチもあり、この地 域の憩いの場になっている。

   
   染地せせらぎ散歩道

現在、根川上流部の、調布市染地の羽毛下橋交差点から染地小学校前
交差点までの間が「染地せせらぎの散歩道」として整備され、
染地小学校前から多摩川までの下流が開渠となっている。
羽毛下橋交差点より上流部も崖線が発達して続いているので、かっては
それに沿ってもっと上流からの流れが有ったと思われるが、今はその痕跡はない。

   
 せせらぎの道沿いの花(家の軒下) 染地せせらぎの道、東側の入口 

 根川は「根堀」とも「はけ田の川」とも呼ばれる。水源は古天神公園東隣り の三軒山と呼ばれる所の府中崖線下の湧水である。そこから崖線下の湧水を 集めつつ東流する。かつては各所で南に広がる千町耕地と呼ばれた広大な水 田の灌漑用水として分水されていたという。ワサビの栽培にも利用されたと いう。今は大半が暗渠となり、羽毛下通りや染地せせらぎ散歩道はその暗渠 の上を走る道である。染地通りを過ぎると開渠となり、そのまま崖線に沿っ て狛江市に入り、大きく弧を描いて南へ曲がって旧六郷用水の取水口辺りで 多摩川に注いでいる。

和泉小学校が終わる辺りで根川に架かる小橋を左に渡っ てハケ上を
走る品川通りに入る。ハケ上といってももうこの辺りでは比高差 は
僅か1〜2mとかなり低くなっている。狭い街路の万葉通りを歩く。
   
 万葉歌碑  万葉歌碑


万葉通りとは先に万葉歌碑が立つこ とからこの名がある。
ほどなく多摩川堤が見えてくる辺りまで来ると街路左 の
住宅の庭先の一角に、その万葉歌碑(玉川碑)が立っている

万葉歌碑には万葉集巻十四・三三七三にある東歌が漢文で刻まれている。
多麻河泊爾      多摩川に
左良須弓豆久利   さらす手作り
佐良佐良爾      さらさらに
奈仁曽許能児能   なにぞこの児の
己許太可奈之伎   ここだかなしき

 万葉の昔、狛江郷一帯は麻の栽培がさかんで、麻から織られた麻布は白く柔 らかくするため、多摩川の流れに浸し河原で日に晒された。この布晒しは女 の仕事であった。そんなことから河原の高台から多摩川を見下ろせば、狛の 里娘達が白い素足を流れに入れて布をさらす姿が見られたのであろう。そん な情景を見ていると、作業に勤しむ娘達がなんとも可愛くて堪らないという、 そんな気持ちを謳ったものである。
 この歌碑は元は文化2年(1805)多摩川のほとりの猪方村名主重八のと ころに居候し手習師匠をしていた元土浦藩藩士平井有三董威により猪方村内 (イノカタムラ)に建てられた。書は寛政の改革で知られる白河藩主松平定信の筆 になる。ところが文政12年(1829)多摩川の洪水により歌碑は流出し 行方不明になってしまった。大正11年渋沢栄一の財政的支援で旧碑の拓本 を模刻して、六郷用水の取入口で風光明媚な現在地に再建された。歌碑は高 さ2.7m、幅1.42mという大きなものである。ちなみに歌碑の筋向い には昔玉翠園と称する鮎料理屋があり、そこで多摩川史蹟後援会が開かれ、 渋沢栄一自ら講演したという。なおありし日の玉翠園跡の石垣が多摩川堤下の 車道を50mばかり西へ進んだ所に残されている。

わが国には玉川と名の付く川は6つある。当時猪方村で手習師をしていた
平井董威(元土浦藩士)という人がその場所を永年考証探索した結果ここと
定め、老中松平定信に碑文を書いてもらい、文化2年(1805)に玉川碑を建てた。
 その後文政12年(1829)の洪水で流失したのを、大正12年(1924)に
渋沢栄一が中心となって募金活動を始め、再建されたのが現在の碑。
 碑面の文字は、流失した万葉碑の拓本があったので、それを元に造られたという。
碑の高さは2.7m。幅1.4m。

   
狛江市のモニュメント「TO THE SKY '90」   五本松方面。多摩川水道橋がみえる。

モニュメント碑文には『このモニュメントは、大地から一粒の種子が地表の
岩石を押しのけ、天空にむかって、たくましく成長する様を表現し、
狛江市の将来を象徴したものです。』と記されている。

   
 狛江市戦没者慰霊塔 西河原公園 

 
六郷用水取り入れ口


 六郷用水は、徳川家康 の命により慶長2年(1597)から
16年にかけて代官小泉次大夫吉次 によって作られた
灌漑用水路で、次大夫堀とも呼ばれています。
 この用水は、多摩川の水をこの辺りで取り入れ、
市役所の裏で野川と合流し、、世田谷区を経て、
大田区に至り、全長約23Kmに及びました。市内でも
和泉、猪方、岩戸の水田に利用されてきましたが、
この辺りは昭和40年に埋め立てられました。
写真は、多摩川から見た取り入れ口で、右側が
現在地付近、左側が玉翠園で、昭和初期のものです。
平成3年3月
狛江市教育委員会 
六郷用水取り入れ口   


狛江市と調布市の境から200mほど川下で、土手の下を走っていた
一般道と土手の高さがほぼ同じになる箇所がある。そこから
土手を少し走ると五本松で、土手を降りると西河原公園である。
ここは、かつて六郷用水(次大夫堀)取り入れ口があったところである。
取水口から取り込まれた水は,掘り下げられた水路を流れ,現在の小田急線
「狛江駅」の近くを通って,田園都市線「二子玉川」,更に東急東横線「多摩川」の
西側の崖下をぬけて最終的には大田区の西六郷,東六郷,
南六郷付近の水田まで運ばれていたと記録されている。
現在,狛江付近の六郷用水の水路は埋め立てられバス通りとなっているが,
水路にかかっていた田中橋,駄倉橋,一の橋,二の橋などの地名が
昔の面影を残している。(駄倉橋は交差点「狛江市役所前」付近に掛っていた橋)

  水神社由緒 
此の地は寛平元年(889年)九月二十日に六所宮(明治元年伊豆美神社と改称)が鎮座されたところです。
その後天文十九年(1550年)多摩川の洪水により社地流出し、伊豆美神社は現在の地に遷座しました。
この宮跡に慶長二年(1597年)水神社を創建しその後小泉次大夫により六郷用水がつくられその偉業を讃え用水守護の神として合祀されたと伝えられる。
明治二十二年(1889年)水神社を改造し毎年例祭を行って来ました。昭和三年(1928年)には次大夫敬慕三百四拾二年祭を斉行 もとより伊豆美神社の末社として尊崇維持されて来ました。
平成十二年九月吉日
伊豆美神社禰宜 小町守撰
 旧六郷用水取入口に建つ水神社  

現在根川は、都道114の水神前交差点脇で多摩川に合流する形になっている(六郷配水樋管)。
この水神前交差点付近は同時に、かっての六郷用水の多摩川取水口があった場所でもある。