浜離宮恩賜庭園 

2019年6月17日


   
銀座線「浅草」駅4番出口で待ち合わせ   吾妻橋

ぽけかるの隅田川クルーズで浅草から乗船し、浜離宮まで家族で行く。
10時に、浅草駅で待ち合わせをする。受付を済ませて、10時35分発の舟に乗る。

   
クルーズ船  乗船乗り場で下りてくる人たち 

   
舟に乗る  ジェット船 

   
吾妻橋  屋形船 

隅田川に架かる12の橋をくぐっていく。
厩橋沿いには、屋形船が停泊をしていた。

   
船内   永代橋がみえる。

船内のアナウンスで橋などの案内をされていた。
永代橋は、元禄11年(1698年)、5代将軍綱吉の50歳を祝して幕府が造ったとのこと。

   
 萬年橋  

   
清洲橋  隅田川に浮かぶショベルカー 

ショベルカーががヘドロをかき上げていた。

   
振り返ると清洲橋とスカイツリー  中央大橋 

清洲橋は、ドイツのライン川沿いの都市ケルンにある吊り橋をモデルしたそうである。

   
石川島灯台   石川島

石川島は、民間で日本初の洋式造船所がつくられた場所。「石川島播磨重工業(IHI)」と
聞けば、わかる。隣りの佃島は「佃煮」発祥の地、佃煮は江戸時代に漁師が
考え出した食べ物。その隣りに位置する月島は「もんじゃ焼き」が有名である。
海から江戸に入る物資を積んだ船は、すべてこの石川島や佃島付近を通ることになる。
軍事面からも重要な海域である。
石川島が時代劇や捕物帖によく登場するのは、「人足寄場(にんそくよせば)」がここに置かれたからである。
提唱者は、“鬼平”こと火付盗賊改長谷川平蔵(ひつけとうぞくあらためはせがわへいぞう)。
火付盗賊改は、町奉行所のなかのいわば地検特捜部のような役職。老中松平定信への建議の末、
寛政2年(1790)に実現した授産施設(失業者に仕事の機会や技術を与える施設)。

   
    勝鬨橋

   
 勝鬨橋   勝鬨橋

勝鬨橋が、東京湾の海と隅田川の川の境だそうである。
明治38年(1905年)、日露戦争の旅順陥落祝勝記念として「勝鬨の渡し船」が
設置され、その名前を取って名付けられたとのこと。昭和15年(1940年)完成。
勝鬨橋(かちどきばし)が最後に跳開したのが1970(昭和45)年11月29日.
かつてこの橋は、橋の真ん中部分が「ハ」の字のように開いていたのだが、
この日以来、ずっと「開かずの橋」になっている。

   
築地市場   

築地市場を横に見ながら舟は浜離宮に近づく。

   
舟から浜離宮の眺め  アメリカティゴ 

浜離宮に到着して降りる。

   
 アメリカティゴ  灯台跡 

浜離宮は東京湾に面し、潮入りの池と二つの鴨場を持つ江戸時代の代表的な大名庭園。
潮入の池とは、海水を導き潮の満ち干によって池の趣を変えるものである。
現在、海水が実際に出入りしているのはこの浜離宮のみとなっている。徳川家の鷹狩場だった所に、
1654(承応3)年、4代家綱弟の甲府宰相松平綱重が別邸を建て、綱重の子綱豊が6代家宣と
なったのを機に将軍のものとなり、さらに十一代将軍家斉のときにほぼ現在の姿の庭園が完成。
明治維新後は皇室の浜離宮となる。1952(昭和27)年11月に周囲の水面を
含め(指定面積32.4ha)が国の特別名勝及び特別史跡に指定される。
浜離宮恩賜庭園は、江戸時代に将軍の江戸城の出城として利用された。
関西から運ばれた物資の江戸城へ入れるための港湾施設でもあったという。

   
 灯台跡 将軍お上がり場 

「 将軍お上り場」は、将軍が船で浜御殿に来た際に上陸する場所。
15代将軍慶喜は、鳥羽伏見の戦いで敗れ、大阪城から、会津藩主松平容保や
桑名藩主松平定敬、老中板倉勝静らごく少数の人たちと軍艦開陽丸で
江戸に逃げ帰り、慶応4年1月12日8時30分過ぎに「将軍お上り場」に上陸した。

   
 黒松  ぽけかるの添乗員さん

ぽけかるの添乗員が説明をしながら案内をしてくれた。

   
東京タワーもみえる。

新樋の口山は、東京湾に面した水門近くの山。レインボーブリッジや東京タワーが見えた。

   
  レインボーブリッジがみえる 樋の口山 

「樋の口山」も水門近くにある。「新樋の口山」とは兄弟の関係。

   
水門   

東京湾の水位の上下に応じて水門を開閉し、「潮入の池」に入る水量を調整している。

   
  「海手お伝い橋」(うみておつたいばし) 

「海手お伝い橋」は、海岸側にある「海手茶屋跡」と庭園とを結ぶ。「海手茶屋」とは、
6代将軍徳川家宣が、舟遊びや漁猟の様子を眺めるために建てた休憩所のことだが、今はない。

   
   

   
   

鴨場は2つあり、池と池から続く堀を作り、土手の向こうから来るカモを綱や鷲で捕まえるという猟をしていた。

   
   御亭山

小高い山、御亭山の頂上は園内が一望できる絶景ポイント

   
  中島の御茶屋 

   
富士見山に登る  富士見山からの眺め 

   
富士見山から  お伝い橋 

中島へと通じる「お伝い橋」は、宝永4年(1707)、6代将軍徳川家宣が、当園の大改修を行ったときに初めて
架けられたという。平成24年(2012)に改修した現在の橋は、全長約118メートルの総ヒノキ作り

   
中島の御茶屋   

「中島の御茶屋」は、「潮入の池」のほぼ中央に、浮かぶような形で位置している茶屋。
将軍が賓客たちと和歌を詠んだり、池に船を浮かべてそこで音楽を演奏させたりしたという。

   
 「可美真手命」(うましまでのみこと)
電通 

「可美真手命」は、神武天皇の東方遠征に従い、手柄を立てたという人の銅像は明治27年(1894)、
明治天皇の銀婚式を記念して陸軍省が行った懸賞募集に当選した作品とのこと。

   
   しょうぶ

   
三百年の松 三百年の松 

三百年の松は、六代将軍家宣が庭園を大改修したとき、その偉業をたたえて植えられた松

   
城壁  大手門枡形入口。