多摩川から羽田空港 

2010年3月15日

多摩川に出て、出発
二十一世紀桜の碑

調布から自転車で、多摩川をずっと下って、羽田空港まで行った。職場で、高校生が前々から

行きたがっていたので、進路が決まったら行こうという話をしていた。進路が決まり、

一緒に行くことにした。調布の職場を9時40分に出て、ターミナルには12時頃に着く。

丸子橋から多摩川の左岸を羽田方面
弁天橋

行きは、登戸の橋で、神奈川側に渡り、丸子橋で東京側に戻ってきた。

弁天橋あたりから飛行機が見え初めて、海の香りもしてきた。漁船もあって、

都心らしくない雰囲気もあった。羽田というと、埋立地であるので、空港のある町という

イメージであるが、海に囲まれたこの土地は、かつて「羽田猟師町」(漁師町ではない)とも

呼ばれていて、漁業の盛んな町だったらしい。まだ名残は残っている雰囲気だった。

トンネルの中をぬける
ターミナル

羽田空港トンネルの上には滑走路がありトンネルを抜けると羽田空港の中心

JALやANAの整備場のある所に出た。

ターミナルの近くの駐車場で自転車を置かしてもらて、ターミナルで、お昼を食べて、

中を歩いて回って、帰ってきた。高校生の乗る自転車は早いので、

どんどん先に行き、ついていくのが精一杯。 

展望広場から見る
展望広場から

ターミナル下のトンネルの入口付近
モノレールの線に平行して戻る

羽田に飛行場が開設されたのは1931年であり、羽田の町は敗戦直後の

1945年9月に羽田の飛行場をGHQが軍事基地にするために撤収し、

海老取川以東(つまり、現在の空港構内)に住んでいた約1200世帯、

3000人に対して、48時間以内の立ち退きが命じられたという。弁天橋には赤い鳥居があって、

いわくつきである。穴守稲荷神社の跡地に旅客ターミナルビルが建つことになり、

鳥居は取り壊されることになっていたが、けが人が続出し、祟りがどうのこうので騒がれた。

ターミナル前の駐車場に移され、その後、空港拡張計画により、今ある弁天橋東詰めの地へ

移設されている。戦後の混乱や空港整備など、時代の影響を受けてしまった鳥居である。

この大鳥居は穴守稲荷神社がまだ羽田穴守町にあった昭和初期に、その参道に寄付により建立されたと伝えられています。 その後、終戦とともに進駐した米軍により、羽田穴守町、羽田鈴木町、羽田江戸見町の地域一帯に居住していた人々は強制退去され、建物はすべて取り壊されました。しかしながら、この大鳥居だけは取り壊しを免れて羽田の地に残され、往事を物語る唯一の建造物となりました。米軍から施設が日本に返還された昭和27年7月、東京国際空港として再出発した後も、この大鳥居は旅客ターミナルビル前面の駐車場の一隅に残され、羽田空港の大鳥居として航空旅客や空港に働く人々に親しまれました。また、歳月を重ね風雪に耐えた大鳥居は、進駐軍に強制退去された元住民の方々の「心のふるさと」として往時を偲ぶ象徴となりました。昭和59年に着手された東京国際空港沖合展開事業により、滑走路や旅客ターミナルビル等の空港施設が沖合地区に移設され、大鳥居も新B滑走路の整備の障害となることから、撤去を余儀なくされることとなりました。しかしながら、元住民だった多くの方々から大鳥居を残してほしいとの声が日増しに強まり、平成11年2月、国と空港関係企業の協力の下でこの地に移設されたものです。(大鳥居の由緒碑より転載)

ある意味、羽田は海だったのだから、どんどん空港も拡張ができるわけである。

弁天橋からターミナルまでは結構距離もあった。

 弁天橋近くの海老取川と多摩川の合流点にある突堤の先端に、小さな祠が建っている。

関東大震災の時、多数の遺体がここに流れ着いて、その霊を祀っているとのこと。

大鳥居
小さな祠

帰りは東京側をずっと自転車で走らせる。帰りは、さすがに少しお尻が痛くなったり、

足腰がきつくなったりしながらも、帰り着くことが出来た。その高校生はまだ余力を十分

残している感じであった。羽田まで自転車でいけたことに大変満足して、喜んでいたのは何よりであった。

武蔵小杉周辺のビル