ハニワと土偶展 

2024年11月4日

東京国立近代美術館で、「ハニワと土偶の近代」展が開かれていたので、観に行ってきた。

   
   

都営新宿線で九段下駅に下りて、千鳥ヶ淵池沿いに歩く。

   
   

   
 竹橋  

ハニワと土偶の近代展は、本物の埴輪は2体のみ、土偶の展示はなく、埴輪や土偶を描いた、もしくは
モチーフにした絵画や工芸、デザイン、造形物など、埴輪や土偶の「イメージ」を扱う展覧会となる。
展示は序章に加え、時系列に沿って戦前、戦後、現代を辿る全4章で構成。

   
蓑虫山人《陸奥全国古陶之図》  河鍋暁斎《野見宿禰図》 

序章「好古と考古─愛好か、学問か?」では、古の遺物が近代において
どのように扱われていたのかを探る。江戸時代後期に活躍した「好古家」と
、明治時代に西洋から持ち込まれた「考古学」はそれぞれ
重なり合いながら、ときに美術を生み出す源泉となった。

   
都路華香《埴輪》1916年  二世 五姓田芳柳《圓形古墳図》 

昭和戦前期の埴輪ブームを追う第1章「『日本』を堀りおこす——神話と戦争と」は、
いかにして埴輪が国粋主義と結びつき、戦意高揚や軍国教育などにも使用されていった
かがわかる。埴輪作りに勤しむ人々の姿を描いた都路華香《埴輪》(1916頃)。
当時、埴輪作りが主題となった背景には、近代に入って初めての復古的大事業として
この時期に行われた、明治天皇伏見桃山陵の造営がある。陵墓に置くために
1000年以上ぶりに埴輪作りが復活したことから社会的に大きな関心事となっていた。
近代国家「日本」の形成過程において、埴輪は「万世一系」の
歴史の象徴となり、特別な意味を持つようになっていく。
のどかな農村の風景に古墳が描かれている《圓形古墳図》(大正時代)は、二世五姓田芳柳
によって、帝室博物館に展示する展示パネルの役割を果たす目的で描かれた作品。

   
杉山寿栄男《上古時代男子図》《上古時代女子図》   

近代国家「日本」の形成過程において、埴輪は「万世一系」の歴史の象徴となり、
特別な意味を持つようになっていく。日清・日露戦争後の国内開発に
伴って埋蔵物の発見も増え、出土品は皇室財産として
帝室博物館(現在の東京国立博物館)に選抜収集されるようになる。
1938年に国家総動員法が公布され、国を挙げて戦争に突入していくなかで、
埴輪の顔は「日本人の理想」として軍国教育にも使われるようになる。

   
清水登之「難民群」1941年   

表現の自由が制限された戦時下において、祖国愛を連想させるハニワは
芸術家が比較的自由に扱える主題として”重宝”された面もあった。


   
   

   
佐藤忠良「たつろう」   

   
 斎藤清  

第2章「『伝統』を掘り起こす——『縄文』か『弥生』か」では戦後の動きを追う。
欧米への見聞旅を経て埴輪や土偶を「発見」した画家たちや、縄文文化に
着目した前衛芸術家たちの目線も紹介。埴輪とキュビズムが結びついた斎藤清の
作品や、土偶を描いた油彩やデッサンを多く残した長谷川三郎の絵画、
1951年に国立博物館で開催された「日本古代文化展」で埴輪の
美に魅せられた猪熊弦一郎による《猫と住む人》(1952)などの作品が並ぶ。

   
 稲田三郎 埴輪  


西洋のキュビスムの影響が日本に及んできた時に、そこにハニワが登場。
円筒形がキュビスムのそれとの共通性があり、モチーフとして使われやすかったかもしれない。

   
 《埴輪 帽子をかぶった男》と
「イサム・ノグチと《女王》
MOMATの初期の頃の展覧会ポスター 

イサム・ノグチが制作した作品《女王》のイメージの源となった可能性がある《埴輪 帽子をかぶった男》

   
長谷川三郎 無題石器時代土偶による   

   
   

出土遺物のイメージを受け継いだテラコッタや陶などの立体作品が
インスタレーションのように展示されている。ここに並んでいるのは、
武人埴輪の兜のようなイサム・ノグチの《かぶと》(1952)や、
「縄文土器論」を残した岡本太郎の《犬の植木鉢》(1954)など。

   
   

   
   建畠覚造の《はにわ》

   
  岡本太郎《犬の植木鉢》 

   
  芥川沙織「古事記より」 

壁一面に広がる芥川(間所)紗織のろうけつ染めの作品《古事記より》(1957)では、
日本の古代や神話のイメージと、1950年代に多くの作家に影響を与えた
メキシコ美術のイメージが重なる。古事記を主題に百鬼夜行絵巻のように描かれた超大作。
縄の鉢巻をしたインパクトのある顔が縄文時代の土器をもとに描かれている。
本展の出品作のなかで最大となる横幅約13.5mの作品

   
岡本太郎《顔》 1952  裏から見た岡本太郎《顔》 

   
   

顔はもともと前衛的な生け花のための花器として制作され、頭部の側面や腕の部分の穴に生けられる。

   
猪熊弦一郎《驚く可き風景(B)》   武者小路実篤 《卓上の静物》

庭に古い土器が出ることを住まいの理想としていたという、武者小路実篤が描いた静物画
ジャガイモ、ニンジンといった馴染みのある野菜と土器が同じ卓上に並んでいる。
武者小路実篤を評した最晩年の「埴輪の美と武者小路氏」(昭和30年=1955)関係。
武者が「縄文土器を愛するあまり調布に移住した」という

   
  タイガー立石《富士のDNA》 

第三章「ほりだしにもどる——となりの遺物」と題された最後の章では、埴輪や土偶が
現代にかけてさらに大衆文化に浸透していく様が紹介される。とくに
1970年代から80年代にかけては、SF・オカルトブームとも結びつき、
特撮やマンガのなかで古代の遺物に着想を得たキャラクターが多数登場する。
1960年代につくられた大映の特撮映画『大魔神』三部作は、戦国時代を舞台にした
物語だが、魔神のデザインは国宝の埴輪《挂甲の武人》がモデルとされている。
《富士のDNA》中央にいるのは若い頃のタイガー立石。画面中には
立石の過去作が散らばり、左上には逆さの土偶が並んでいる。

   
富士のDNAの左上にある土偶  

   
 NHK教育番組「おーい!はに丸」 東京国立近代美術館 

   
九段会館テラス玄関  一階プラザ 

九段会館は、1936(昭和11)年の二・二六事件の頃には、戒厳司令部が設置された軍人会館。
終戦後、建物はGHQに接収され「アーミーホール」の名で連合国軍宿舎として使用された。
接収が解除された後は、名称を「九段会館」に変えて、レストランや結婚式場として再営業を果たす。
その後、旧九段会館の一部を保存、復原しながら新築棟を増築し、「九段会館テラス」として
2022年10月にリニューアルオープン。旧九段会館の保存部分は、登録有形文化財にも登録。

   
   九段会館屋上庭園

   
 大竹幸恵さん  

下高井戸シネマで、「掘る女」をみた。キャストで出た大竹幸恵さんの舞台挨拶があった。