鉢形城 

2019年3月9日

埼玉県寄居にある鉢形城に行った。矢野口駅から南武線に乗り、府中本町で
乗り換え、武蔵野線で北朝霞駅から東武東上線の朝霞台駅に乗り換え、
志木駅で快速急行に乗り、小川町、寄居駅に着く。
写真を撮ろうとしたら、デジカメを忘れてきたことに気づく。
どうしようと思ったが、とりあえず携帯電話(ガラケー)を持っていたので、
それで撮ることにした。だが、普段使っていないので、使い方に戸惑う。
電源も持たないのでは思っていたが、試しに撮ってみた。

   
 荒川  史跡 鉢形城跡の碑

鉢形城の概要(公式HPによる)

鉢形城跡は、戦国時代の代表的な城郭跡として、昭和7年に国指定史跡となりました。城の中心部は、
荒川と深沢川に挟まれた断崖絶壁の上に築かれていて、天然の要害をなしています。
この地は、交通の要所に当たり、上州や信州方面を望む重要な地点でした。
 鉢形城は、文明8年(1476)関東管領(かんとうかんれい)であった山内(やまのうち)上杉氏の
家臣長尾景春(ながおかげはる)が築城したと伝えられています。後に、この地域の豪族
藤田泰邦(ふじたやすくに)に入婿した、小田原の北条氏康(ほうじょううじやす)の
四男氏邦(うじくに)が整備拡充し、現在の大きさとなりました。関東地方において有数の
規模を誇る鉢形城は、北関東支配の拠点として、さらに甲斐(かい)・信濃(しなの)からの
侵攻への備えとして重要な役割を担いました。 天正18年(1590)の豊臣秀吉による小田原攻めの
際には、後北条氏の重要な支城として、前田利家・上杉景勝等の北国軍に包囲され、攻防戦を展開しました。
1ヶ月余りにおよぶ籠城(ろうじょう)の後に、北条氏邦は6月14日に至り、城兵の助命を条件に開城しました。
開城後は、徳川氏の関東入国に伴い、家康配下の成瀬正一・日下部定好が代官となり、この地を統治しました。

   
 鉢形城跡の説明版 木の奥に荒川 

城主である北条氏邦は籠城策をとり、最終的には5万もの秀吉の軍勢が鉢形城を包囲した。
氏邦は家臣の助命が認められたため、鉢形城を明け渡し降伏した。
落城悲話として、城内の婦女子が本丸の断崖から荒川に身を投げたという話が伝わっている。

   
三の曲輪   三の曲輪 四脚門の前

二の丸から三の丸にかけては土塁や曲輪、水掘や空掘もよく残っている。
三の曲輪は、一段高くなっている四脚門と土塀、柵で囲まれた区域は、庭園が発見
された所で、伝承では、北条氏邦の家臣である秩父孫次郎が守った秩父曲輪と
いわれている。四脚門の前には虎口周辺の状況が復元整備されている。
つまり、三の曲輪(伝秩父曲輪)には、石積土塁や石組排水溝、井戸などが
発掘調査に基づいて復元されている。

   
外曲輪に建つ鉢形城歴史館  土塁 

歴史館には、映像で鉢形城の歴史や城主の北条家などについての説明があった。

   
 外曲輪  田山花袋碑

外曲輪は、下級武士の住まいがあった曲輪で、周囲には土塁が築かれている。
土塁の後方には、城下町が形成され、城の守りを兼ねていた。
田山花袋が大正七年に鉢形城跡を訪れた際に詠んだ、漢詩。刻まれた文字は
武者小路実篤によるもの。調べてみると、「襟帯山河好 雄視関八州 古城跡空在
 一水尚東流」と書いてある。意味は「素晴らしい山や川、関八州を見渡せる場所、
古城の跡は何故か空しく、一水(荒川)はなおも東に流れる」というような意味らしい。

   
鉢形城本丸跡  本丸跡からの眺め 

本丸跡石碑の後ろには、荒川の断崖絶壁上に一段高く築かれた土塁がある。
昼食を食べる店を寄居駅の近くで探したが、なかなか適当な店が見つからず、
ソバ屋があったので、入ってみた。天ざるの大盛を頼んだが、天ぷらは
いろいろな種類が入っていて、食べ応えがあった。歩き回って、やっと見つけて
満足する。昼食にありつけたのは良かった。ただ、花粉症の症状が出て、つらくなり、
とにかく帰ろうと思い、寄居駅から電車が出るというので、慌てて飛び乗って、
帰路に着く。帰りは南多摩の駅で下りて、季の彩の温泉に入る。