姫路城 

2023年11月5日


   
のぞみ   姫路駅

神戸で研修があったので、研修前日に休日をとって、姫路城と播州赤穂城に行った。
東京駅から播州赤穂まで乗車券を買い、新幹線特急を姫路駅まで購入した。
東京駅でのぞみに乗り、姫路まで行った。

   
 駅から姫路城を望む 和船 

   
   

「姫路城」は赤松貞範(あかまつさだのり)が、1346年に築いた「姫山城」を前身に持つ。
当初は小規模だったが、西国統治の重要拠点として、時代とともに拡張が進められた。
1580年に豊臣秀吉(とよとみひでよし)が入城すると、3層の天守閣建築を
はじめとした大改修を実施し、城名を「姫路城」と改める。
戦乱の世が落ち着いた1617年に、城主・本多忠政(ほんだただまさ)が
整備・増築を行い、このときに現在見られる「姫路城」の全容が整う。
以来、大きな戦災を受けず100棟近くの建築物が現存している。

   
   

   
  菱の門 

菱の門は、最初にして最大の門で、二の丸へ通ずる入り口を固める櫓門。
外敵からの侵入を防ぐため、門には色々な工夫が凝らされている。
例えば門は「枡形虎口」(ますがたこぐち)と呼ばれる型を採用。なだらかな勾配と
通路を左や右に進ませることで、攻撃の勢いを削ぎます。門の上部には、
石落としの穴があり、攻め込んできた敵を石や槍で攻撃できる。

   
連立天守   

シラサギが羽を広げたような優美な姿から「白鷺城」の愛称で親しまれる姫路城。
白漆喰総塗籠造りの鮮やかな白の城壁や5重6階地下1階の大天守と
東、西、乾の小天守が渡櫓で連結された連立式天守が特徴である。
四つの天守が四角形を描くように連なっており、「連立式天守」と呼ばれている。
四つのうち唯一大きい天守が「大天守」で、四角の東南側にあたる隅に建っている。
ほかの三つの天守は「小天守(こてんしゅ)」と呼ばれており、
それぞれ「西小天守」「乾(いぬい)小天守」「東小天守」という名がつく。
大天守は見かけが5重なので5階建てに見えるが、実際は地下1階、
地上6階の7階建て。高さは約31.5mである。江戸時代から残る
「現存12天守」の中でもっとも高いのが姫路城である。

   
 姫路城内

   
 東大柱 高窓 と武具かけ

地下1階から5階まで大きな2本の柱が貫いています。東大柱の1階〜5階部分は築城当時のまま残っている。

   
   刑部明神を祀る「刑部神社」

   
西側の展望   

西側の展望で、小山は景福寺山。景福寺山の手前には、西の丸の櫓の連なりも見える。

   
 西の丸の櫓の連なり  南側

   
 白壁の高校  北側

   
   武者隠し

大天守の3階には「武者隠し(むしゃがくし)」と呼ばれる
スペースが四隅に設けられている。内部に攻め入った
敵をここに隠れた兵が応戦できるようになっている。

   
   

   
縄かけと鉄砲置き   

   
   

   
 姫路駅方面を望む  井郭櫓(いのくるわやぐら)

井戸櫓(井郭櫓)は、一重櫓で、監視目的の与力窓を
設けるなど実戦的な構造になっている。
水を供給するだけでなく、「ち」の門から備前門に通ずる
天守東側、搦手口の守備を強化する役割を担ってい

   
   お菊井戸

姫路城の城主・小寺則職(こでらのりもと)の家臣・青山鉄山(あおやまてっさん)は、
城を奪い取る計画を立てていた。これに勘づいた小寺則職の忠臣・衣笠元信(きぬがさもとのぶ)は、
愛人である「お菊」を青山家に送り、計画を未然に防ぐ。青山鉄山の家臣である
町坪弾四郎(ちょうのつぼだんしろう)に、お菊が裏切り者だと気付かれ、助ける代わりに
町坪弾四郎との結婚を強要されるがお菊は拒絶。怒り狂った弾四郎は、家宝の皿10枚のうち1枚を隠し、
お菊に罪を着せた。最終的には責め殺し、井戸に投げ込んでしまう。
それ以来、井戸からは「1枚、2枚・・」と皿を数える声が毎晩聞こえるようになったと伝わる。
お菊が投げ込まれた井戸は、「お菊井戸」として「姫路城」の本丸に現存している。
姫路城にまつわる怪談話「播州皿屋敷」としても有名なお菊井戸。上山里丸(かみのやまさと)
という広場にあり、かつては、釣瓶取井戸(つるべとりいど)とも呼ばれていた。
青山播磨守主膳(あおやまはりまのかみしゅぜん)に奉公していた女中・お菊は、
青山の家臣・町坪弾四朗(ちょうのつぼだんしろう)により「青山の大事にしていた皿10枚のうち、
1枚を割った」という無実の罪で責め殺されて、その遺体を井戸の中へ投げ込まれてしまう。
以来、夜な夜な古井戸からは、皿を数えるお菊の悲しげな声が聞こえるようになった。
そして、お菊が投げ込まれた井戸こそが、「お菊井戸」であり、怪談として人々に伝えられている。

   
明治時代の鯱  昭和時代の鯱

大天守の鯱。瓦葺屋根の大棟の両端につけられている飾りの一種で、
鬼瓦と同様に守り神とされていた。姿は魚で頭は虎、尾ひれは常に上を向き、
背中には幾重もの鋭いトゲを持っているという想像上の動物を模している。
明治時代の鯱は5代目の姫路城大天守の鯱。
昭和の大修理の際に、大天守の東側に上がっていたもの。
昭和時代の鯱は、6代目の姫路城大天守の鯱。昭和の大修理の際、大天守の
二重の屋根に貞享4年(1687)の銘のある小型の鯱が発見されたそうである。
姫路城大天守には計11尾の鯱が載り、全て「昭和の大修理」で取り換えられた。
「昭和の鯱」は、同城で現存最古の1687(貞享4)年の鯱瓦がモデル。
ところが、この「貞享の鯱」はなぜか1尾のみで、一対としては残っていなかった。
これを基にした結果、11尾全てが同じ形になってしまった。

   
平成の鯱  

平成時代の鯱は平成の大修理で、大天守最上層の2尾の鯱が取り替えら
れたが、これは山本瓦工業株式会社から寄贈された同型の鯱だとのこと
形は昭和の鯱を忠実に再現されているとのこと。

   
 扇の勾配 廊下の大戸 

1601年(慶長6年)以降、池田輝政によって備前丸西側に築かれた石垣。
隅角部には、長方形の石を長短が交互になるように組み合わせ積み上げる、
算木積み(さんぎづみ)が見られる。石垣の形が、まるで扇を開いたような曲線を
描いていることから、「扇の勾配」と呼ばれている。扇の勾配は、上部にいくほど
急傾斜になっており、敵の侵入を防ぐには十分である。西の間の百閒廊下を歩く。
千姫に仕えた侍女たちが居たところで、千姫は毎朝この廊下から男山を拝んでいたと伝えられてい

   
千姫色彩乾漆座像   

   
千姫復元着物   

   
  マンホール 

   
みゆき通り  ラーメン 

姫路駅へ戻るときにみゆき通りを通って、ラーメンを食べる。この後姫路駅から
播州赤穂駅まで乗り、赤穂城に行った。