福井 

2020年9月21日


   
一筆書きの旅   三河安城駅

愛知の実家に帰るついでに福井の丸岡城と一乗谷城に行ってみようと、
ふと思い立ち、行くことにした。今回も一筆書きの列車の旅となる。
新宿駅の緑の窓口で切符を購入。帰りの北陸新幹線金沢発
17時50分が、混んでいて、3人席の真ん中しかないといわれたので、
久しぶりの新幹線、コロナ禍が気になり、17時7分発の
窓際の席を購入した。一度だけ列車変更できますよと言われた。
三河安城駅に、妹が迎えに来てくれる。

   
 東海道、山陽新幹線 サンダーバード 

三河安城駅から米原まで 新幹線「こだま」に乗る。
米原から福井まではサンダーバードに乗る。

   
伊吹山   福井駅

サンダバードに乗っていると、途中、伊吹山が見えた。

   
   

恐竜トリックアート(左:トリケラトプス 右:フクイラプトル・フクイサウルス)

   
駅舎恐竜ラッピング  フクイテイタン 

福井県が恐竜王国として有名なのは、福井県から数多くの恐竜の化石が発掘されたからとのこと。

   
フクイサウルス   路面電車

9時過ぎに福井駅に到着し、観光案内所で、巡り方を聞こうとすると、
9時半発の丸岡城行きがあるので、乗ったらどうですかといわれ、
1000円フリーパス券を購入して、まず乗ることにした。

   
 丸岡城  牛ケ島石棺

ボランティアガイドさんに説明をお願いしたところ、団体が入っているので、
それまでの20分間説明をしていただけることになった。
丸岡城築城前、この辺りの拠点は丸岡城より東方約4kmのところにあった「豊原寺」。
豊原寺は、三千坊ともいわれる宿坊が立ち並ぶ大きな門前を有していた。
1573年、織田信長は、当時越前を治めていた戦国武将「朝倉義景」を討ち、
都があった一乗谷を焼き払った。すると、豊原寺をはじめとしたこの辺りの
一向宗の勢力が増したため、1575年、再度織田信長が「越前平定」のため
越前に攻め入り、豊原寺などの一向宗の拠点を焼き尽くした。
その後、柴田勝家の甥「柴田勝豊」がその豊原の地に居を構えたが、
翌1576年「まるこの岡」と呼ばれていた現在の丸岡城の場所に城を移した。
天守は近年の調査結果から、寛永年間(1624〜1644)に建造されたとされている。
昭和23年の福井大震災により天守が倒壊してしまい、現在の丸岡城は、
当時の建材等を使って昭和30年に再建された。
 牛ケ島石棺は、丸岡町牛ケ島地区の御野山古墳から出土したもので、
福井県内では最古の(4世紀)の舟形石棺(割竹石棺)。
振媛の一族の石棺だと云われている。笏谷石(しゃくたにいし)製

   
一筆啓上茶屋  一筆啓上の石碑 

「一筆啓上 火の用心 お仙泣かすな 馬肥せ」徳川家康の家臣本多作左衛門
重次が陣中から妻に宛てて送った手紙として有名。「お仙」とは後の丸岡城主
本多成重(初代丸岡藩主 幼名:仙千代)のこと。この石碑が縁で、
日本一短い手紙文の一筆啓上賞の起こりとなる。

   
 鯱(石製しゃち)  天守は望楼型二層三階
鯱(石製しゃち)
  『この鯱は、もと木彫銅版張りであったものを、昭和15〜17年の修理の際に石製の鯱に改めたもの。 その当時は戦禍中で銅版の入手が困難であったため、やむなく天守閣の石瓦と同質の石材で作り変えられたが、この石鯱も昭和23年6月の福井大震災により棟から落下し、現在のような形で残っている。 現在の天守閣の上にのっている鯱は、昭和27年〜30年の週福寺に、元の木彫銅版張りに復元したものです。』
案内板より。


1948年(昭和23年)の福井地震発生以前に天守閣の屋根に置かれていた
シャチホコも、笏谷石で作られていた。
城の石垣の造営方法には、野面積(のづらづみ:様々な大きさの自然石を
パズルのように積み上げる手法)を採用。石の大きさが違うため、
隙間が多く排水能力に優れているので、大雨や大雪でも崩れる心配もない。


   
  急な階段 


   
 天守閣からの展望  天守閣からの展望

   
三層のつくり   

丸岡城の階段が現存天守の中では一番傾斜がきつくて65度あるそうだ。

   
 石瓦 石瓦と鬼瓦 

丸岡城の屋根は、石の瓦で葺かれている。ただ、最初から石瓦葺(いしがわらぶき)
だったわけではなく、竣工当時の屋根は石瓦より軽いこけら葺(こけらぶき)だった。
こけら葺から石瓦葺に変わったことで、屋根の重量は5〜6倍、丸岡城の基礎や
柱にかかる負荷は1.5〜2倍に増えたと推定されている。この屋根瓦の
原料になったのは、笏谷石(しゃくだにいし)という地元・福井県産の
石材。1,500年前の古墳時代から使われていたことが判明している
笏谷石は、「越前青石」とも呼ばれている。

   
 腰屋根  

野面積みの天守台では、天守台の石垣上端に揃えて天守を建てることができず、
石垣の方が天守初層の外寸よりも余裕を持って造られる。このままだと
雨水が隙間から入り込んで石垣が崩れる恐れがあるため、石垣の
余裕部分に小さなスカート状の腰屋根とか板庇と呼ばれるものが
取り付けられ、雨水が入り込むのを防いでいる。

   
   

   
   

   
 歴史民俗資料館 丸岡城主 本田成重 

   
   

   
 「一筆啓上 火の用心 お仙泣かすな 馬肥やせ」  城丸くん

 「一筆啓上 火の用心 お仙泣かすな 馬肥やせ」
家康の家臣、本多作左衛門重次が長篠の戦いの際陣中より妻に送った手紙
火の扱いに気をつけよ、お仙(嫡男・仙千代)を大切にせよ、
馬の手入れを頼む・・・短い文章に要点が網羅されている。

   
 駅弁  駅弁

福井駅に戻ってきたのが12時20分。一乗谷駅行きのバスはしばらくない。
再度、観光案内所を訪れて、相談をして、12時50分発の
JR越美北線に乗って、一乗谷駅(13時7分着)まで行くことにした。
昼を食べる時間があまりないので、駅弁を買って、車内で、食べる。

   
JR越美北線  一乗谷駅 

   
JR越美北線 一乗谷駅   

   
一乗谷朝倉氏遺跡   
 文明3年(1471)越前の守護朝倉孝景が,一乗山とその谷間をそっくり城塞化して築いた山城。以来,朝倉氏五代103年にわたって国内統治の中心となり,独特の武家文化を育んだが,義景のとき,織田信長に攻略されて落城,朝倉氏の滅亡とともに廃墟と化した。城址は,昭和42年の発掘調査でその全貌が明らかにされ,「一乗谷朝倉氏遺跡」として,国の特別史跡・特別名勝に指定されている。◎朝倉孝景(1428-81)坂井郡黒丸城生れ。別名敏景。守護斯波氏を押えて越前を掌握し守護職に任ぜらる。戦国大名の典型。初代一乗谷城主。◎朝倉義景(1533-73)一乗谷生れ。五代一乗谷城主。一乗谷に京風文化の花開かす。織田信長と対立,浅井氏と結び対抗し大敗。大野で自刃。


一乗谷城は朝倉氏の居城として知られ、一度も戦闘に使用されることなく廃城となった城でもある。
現在でも曲輪や空堀、伏兵穴跡などの遺構が尾根や谷筋に沿って残っている。

   
下城戸  下城戸 

一乗谷朝倉氏遺跡は福井市街の東南約10キロにあり戦国時代朝倉氏五代の
城下町の跡がそっくり埋もれていた。一乗谷は、左右を比高80m〜100mほどの
山に挟まれており、土地が低い一乗川が流れる谷の前後に、敵の侵入を防ぐ目的で、
一乗谷の南北に上城戸(かみきど)、および下城戸 (しもきど)を設け、
一乗谷全域を防御すると言う体制を取っていた。
下城戸は、現在、高さ4m、長さ38mの土塁が残っており、土塁の西側に
巨石を組み合わせた通路跡があり、一乗谷の城下町の入口になっている。

   
  井戸 

朝倉氏は元々現在の兵庫県養父郡の豪族で、南北朝時代に
朝倉広景が主家の斯波高経に従って越前に 入国した。
応仁の乱(1467〜77)の時、朝倉孝景が一乗谷に本拠を移し、
2代氏景の時に越前守護斯波氏、 甲斐氏を追放した。3代貞景が
永正3年(1506)に加賀一向一揆を撃退したことにより、 ようやく越前は安定した。
4代孝景の時に最盛期を迎え近江、山城などに出兵し、京、奈良のの貴族、
僧侶などの文化人が 戦乱を避けて下向してくるのを庇護した。
5代義景は後の15代将軍足利義昭を迎えたが、義昭は上洛することが
できない義景を見限り、 織田信長の元へ去っていった。

   
   墓地跡

天正元年(1573)義景は織田信長との戦いに敗れ5代103年続いた
一乗谷朝倉氏は滅亡、一乗谷の町は戦火によって焼土と化した。
これにより400年以上もの間、館、城下町もそっくり埋もれて残されたという貴重な遺構。
昭和42年から発掘調査が進められ、現在は平面復元以外に町並復元も行われ、
当時の武家屋敷、町屋が再現され、 当時の様子を実体験で知ることができる。

   
 墓地  

   
   平面復原地区

   
   

   
  朝倉義景館跡の唐門 

13代将軍・足利義輝(あしかがよしてる)が永禄8年(1565)に三好氏らによって
殺害される事件が起きると、足利義輝の弟である覚慶(かくけい)は、
朝倉義景の援助のもと近江国(滋賀県)へと逃れた。覚慶は朝倉家を頼って
越前に3年にわたって逗留。朝倉義景は覚慶を親身になって後見し、
元服の儀(成人になったことを示すために行われる儀式)まで行うほどである。
その後、覚慶は織田信長を頼って上洛を実現し、15代将軍・足利義昭(あしかがよしあき)
となった。織田信長から上洛し服従することを命じられたが、朝倉義景は拒否。
本願寺や延暦寺など宗教勢力らと連合して織田信長に対抗。
朝倉義景と織田信長は、元亀元年(1570)より4年にわたって本格的な戦いを行う。
勝敗が決定的になったのが元亀4年(1573)、小谷城に籠る浅井氏の救援に
駆けつけたものの大敗を喫した。朝倉義景は一乗谷に帰陣し、大野郡(福井県東部)
へと移動。織田信長軍によって一乗谷は放火、破壊され、朝倉義景もついに自刃へと追い込まれた。

   
朝倉館跡   朝倉館跡

   
   朝倉義景の墓

   
  英林塚 

   
朝倉孝景墓所  高台から望む 

朝倉氏第7代当主(戦国期朝倉氏 初代)朝倉孝景(1428〜1481年)の墓 
その法名より「英林塚」と呼ばれている。墓は宝筐印塔で、墓石が傷まないように
堂宇で覆われている。朝倉氏館の背後の高台にある。

   
 堀 朝倉氏庭園 

   
 朝倉義景館跡  一望した朝倉義景館跡

   
朝倉義景の墓   

   
   復元街並み

   
和傘と風鈴   

   
 台所  復元式武家屋敷 奥の間

   
   

   
武家屋敷  ジンジャーエール 

14時56分発の京福バスに乗ろうとしたら、満員で一人しか乗れないとのこと。
コロナ禍で、乗車人数を制限しているようだ。結局、あきらめて、
越美北線の一乗谷駅まで歩いて、15時46分発に乗ることにした。
そうすると、16時3分に福井駅に到着するので、16時発のサンダーバードには
乗れない。17時7分金沢発の北陸新幹線には間に合わないので、福井駅で
予約変更をみどりの窓口で行った。17時55分金沢駅発の新幹線にした。
結果的には、新幹線の席がキャンセルがあったらしく、、窓際の席が取れた。

   
 金沢駅 17:55金沢発東京行き 

金沢駅で、駅弁を買おうとしたら、売り切れていた。仕方なくビールとつまみを買って、
新幹線に乗り込んだ。金沢駅ではたくさんの人で賑わっていた


福井市宣伝隊長「朝倉ゆめまる」

一乗谷朝倉氏遺跡の象徴である唐門を兜とした武将の姿をしている。