府内城 

2022年11月10日


   
   

研修2日目の明け方、まだ暗いうちにホテルを出て、府内城に向かう。
地図であまり調べずに、わかるだろうと思って出たが、なかなかたどり着かない。
違う方向に向かって歩いたらしく、また戻って、朝の散歩している人に聞いて、
親切に教えていただいて、やっとたどり着く。

大分府内城 
府内城は、かつてこの地を治めていた大友氏の居館に1597年(慶長2)入った石田三成の妹婿であった福原直高が、大分川の河港「荷落ち」の地に築城を開始し、2年後には望楼型の四重天守を持つ城の大半を完成させたといわれる。関ヶ原の戦い後、城主となった竹中重利が当初の天守を新式の層塔型へと改めるなどの大改修を行ない、1607年(慶長12)、北側は海、東側は大分川河口の湿地帯を天然の要害として本丸、二の丸、山里丸、北の丸が梯郭式に配置された城を完成させた。その後1743年(寛保3)、城下からの出火で天守ほか多くの建物が焼失し、以降天守は再建されなかった。焼失を免れて明治維新後も残っていた着到櫓や大手門なども戦災で失われ、人質櫓・宗門櫓を残すのみとなっていたが、1965年(昭和40)に大手門と4基の櫓が復元され、翌年西丸と山里丸を結ぶ廊下櫓が復元された。 


   
   

   
  天守台 

   
西丸西南隅櫓(復興 櫓)   

   
  大手門 

100名城のスタンプは朝が早いので押せないかなと思っていたら、
大手門の脇に置いてあったので、押すことができた。

   
聖フランシスコザビエル像  聖フランシスコザビエル像説明版 
 聖フランシスコザビエル像説明版 
 

日本に初めてキリスト教を伝えた聖フランシスコザビエルは、東洋宣教の途次1549年(天文18年)日本に渡来した。
 その後鹿児島、平戸、山口で布教し1551年(天文20年)9月大友宗麟の招きにより大分に来て布教した。かくしてこの地は日本における宣教の中心地となり、西洋文化が目覚ましく開花した。
 少年たちはビオラを弾き、讃美歌をうたった。これは日本で唱歌を歌った最初である。またクリスマスにはこれも日本最初の西洋劇が演ぜられた。更に日本で初めての洋式病院さえあった。その他初等学校、問答学校、通訳学校、伝道士学校、コレヂオもあった。
 実に大分こそは当時西洋文化の花園であった。
今聖師の像を建つるに当たって、その昔をしのびこの一文を草する。

1969年12月3日 聖フランシスコ・ザビエルの祝日 

 大分県キリシタン史蹟顕彰会 上田 保