伊香保温泉 

2015年6月11日

職員旅行で、伊香保温泉に宿泊し、夕方と朝に街をぶらぶら歩いた。

   
東武鉄道伊香保27号線  全日本ろうあ連盟 結成の地 

明治43年から昭和31年まで渋川と伊香保の間には路面電車が走っていた。

かつて活躍した路面電車(東武鉄道伊香保27号線)は2013年11月に搬出、整備、

復元され伊香保のかつての軌道終点付近の峠の公園に展示されていた。

日本ろうあ連盟 結成の地 という場所で、ろうあ者の方が何人かいらして、手話でやり取りをしていた。

夜ホテルでテレビを見ていたら、この日は群馬でろうあ者大会が開催されていたことを放送していた。

   
八千代坂  石段につながる脇道 

一歩石段につながるわき道に入ると、もう長らく誰も使用していないような建物が並んでいた。

脇道は石段街と比べると荒んで雰囲気を醸し出していた。

   
 伊香保温泉これより石段365段 石段を登る。 

平成22年に延長された石段は現在365段あり、1段目の標高は715m、365段目は783mで標高差は68mもある。

   
お店が並ぶ  我国温泉都市計画第一号の地 

伊香保温泉のシンボルである石段が誕生したのは1576年頃で、長篠の戦いで織田・徳川連合軍に敗れた武田勝頼が、

多くの負傷者を治療するため、源泉を各浴舎に引湯する目的で、この地を治めていた真田昌幸に命じて造らせたものだと

言われている。これは、日本で初めての温泉都市計画であり、湯元より温泉を導いて石段の中央に湯樋を造り、

左右に整然と区画された浴舎に効率よく温泉が配られたとのこと。

 
『伊香保の街』  与謝野晶子
1915年(大正4年)
榛名山の一角に、段また段を成して、
羅馬時代の野外劇場の如く、
斜めに刻み附けられた 桟敷形の伊香保の街、
屋根の上に屋根、部屋の上に部屋、
すべてが温泉宿である、そして榛の若葉の光が
柔かい緑で 街全體を濡らしてゐる。
街を縦に貫く本道は 雑多の店に縁どられて、
長い長い石の階段を作り、伊香保神社の前にまで、
Hの字を無数に積み上げて、
殊更に建築家と繪師とを喜ばせる。
 
 与謝野晶子「 伊香保の街」

石段街の温泉場として知られる群馬県渋川市の伊香保温泉。石段の両脇に温泉旅館やお土産屋、射的の店などが並び、

温泉情緒たっぷり。徳冨蘆花の小説「不如帰」の舞台にもなり、石段の途中には与謝野晶子の「伊香保の街」の詩が刻まれている。

   
 足湯 石段街を登ったところ 

   
 一ノ鳥居と二ノ鳥居  階段上の鳥居

365段の石段を登り詰めると伊香保神社がある。伊香保神社は、富岡の貫前神社、赤城の赤城神社とともに、

上野国三ノ宮として親しまれた由緒ある神社。

   
伊香保神社 拝殿 伊香保温泉石段登り口 

   
   宿泊したホテル「松本楼」

伊香保温泉の特徴は湯の色で、。「黄金の湯」と「白銀の湯」がある。黄金の湯は湯の中に含まれる鉄分が空気に触れることで、

独特の茶褐色になる。肌への刺激が少ないため、療養や静養の地として愛されている。また血行を促すとして女性に人気があり

「子宝の湯」として知られている。白銀の湯は無色透明で平成8年に伊香保温泉事業協同組合の設立により利用され始めた。

   
 河鹿橋 河鹿橋 

伊香保神社の先に進むと奥まったところに朱塗りの橋が河鹿橋。河鹿橋は、伊香保温泉源泉近くにある朱塗りの太鼓橋。

河鹿橋は紅葉の名所とも言われているが、今回は緑鮮やかであった。

 
 湯元呑湯道標 万葉歌碑 

飲泉所やその場所を示す「湯元呑湯道標」があった。
湯元呑湯道標の案内板によると「 明治期ドイツ人医師ベルツ博士の指導により飲泉療法が盛んになり呑湯所も
設置されたと考えられます。この道標は、浴客にとって不案内な土地での道案内に建てられました。呑湯という土地内の
一ヶ所を指示する道標は全国でも珍しく交通史、風俗史として貴重なものです。・・・(後略) 渋川市教育委員会」とある。

万葉集第十四巻の東歌の中には伊香保を歌った歌が9首あり、伊香保神社境内や飲泉所などゆかりの各所に歌碑が立てられている。

   
 伊香保温泉飲泉所 温泉が飲める。 

飲泉所は温泉水が飲める。飲んでみたが、鉄分の強い味で多くは飲めない。慢性アレルギー、肥満によいという。

   
伊香保温泉湯元  湧き出し口 

河鹿橋の更に先、飲泉所から山道を登った最奥に湯元がある。温泉の湧き出している様子がよく見える。

この2号源泉は、大きなガラスのドームに覆われて、観光客がのぞけるようになっている。

   
ラドン発祥の碑  ベルツ博士像 


河鹿橋から上流に伊香保温泉の源泉があり、その一角に『若き日のベルツ博士の胸像』が建てられていて、次のように記してある。
  
「ベルツ博士は日本温泉医学の父であり、わが伊香保温泉にとって大恩人であります。明治初期(1870年代)数多い日本の温泉のなかで博士に第一番に系統的指導を受けたのが伊香保温泉であり、この時の指導内容が日本鉱泉論として発表され日本温泉医学の原典になっておりますことは当町の最も誇りとするところであります。」

ドイツ人医師ベルツは日本各地の温泉を視察し、明治13年に伊香保温泉をモデルに温泉地としての必要な改善策を示した「日本鉱泉論」を

政府に提出し、伊香保は、それに基づいた町の整備、衛生状態の改善、飲泉所の設置などが行われ、今日の温泉街の基本となった。

明治維新で大政奉還が実施された頃、ベルツ博士は伊香保温泉や草津温泉の温泉地づくりの指導をし、

この功績を称えられ「温泉医学の父」と称されている。

   
 俳句ポスト 崖に沿って立つ建物 

廃墟になった旅館やホテルもたっていた。崖に沿って建っている建物もいくつかあった。

   
 伊香保口留番所 ハワイ王国公使別邸  

伊香保関所寛永8年(1631)幕府の命によって設けられた三国街道裏往還の関所を復元

伊香保道は三国街道の脇往還でもあり、三国街道が吾妻川の増水で通行できない時にも伊香保を経て上流に回れば

渡河することができたため、北国への通行を取り締まる目的で1631年に「伊香保口留番所」が石段入口付近に設置された。

ハワイ王国公使別邸は、明治初期に建てられた純和風の木造建築。かつてハワイが独立国だった頃の

駐日代理公使ロバート・W・アルウィンの別邸で、日本に残るハワイ王国唯一の建物