生田緑地
2017年5月3日
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奥の池 |
岡本太郎美術館
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樹霊 |
撮影ができる場所 |
岡本太郎美術館は、自然豊かな川崎市の生田緑地に位置。川崎市ゆかりの芸術家岡本太郎から
寄贈された美術作品及び資料を中心とした美術館である。常設展で、 「岡本太郎―赤の衝動―」展を開催されていた。
岡本太郎は「あなたの好きな色は何ですか?」と尋ねられると必ず「赤」と答えていました。
絵画作品でも象徴的に使われている「赤」は岡本太郎にとって炎や太陽、血、そして命の色でした
抽象絵画をこころざしたパリ留学中から1980年代にいたるまで、岡本は赤の色彩をもちいた作品を
数多く描いています。本展では、そんな岡本が生涯描き続けた「赤」の作品をご紹介します(川崎市HPより)
岡本太郎は1911年川崎市高津区に生まれ。父は漫画家の一平、母は歌人で小説家のかの子
夫婦仲は荒れ果て、一平は放蕩三昧に。かの子は「遊んでほしい」と泣きわめく幼い太郎を柱に括り付け、
創作に没頭したという。太郎が物心つく頃には両親と太郎・母の恋人と同居していた。
1929年、太郎が19歳の時に両親と母の恋人、書生の5人でヨーロッパへ行く。21歳でピカソの作品と出会い、
抽象画の道へ。だが“具象的なものと抽象的な要素、2つの異なるものがぶつかることで新たな
エネルギーが生まれる”という「対極主義」を確立。その後はソルボンヌ大学で哲学や社会学、
民族学を学んだ。ある日、「守るから弱くなるんだ。選択肢があったら必ず危険な方を選ぶ」と悟る。
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母の塔 |
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高さ30mの「母の塔」は、岡本太郎美術館のシンボルタワーである。子どもの日が近いのでこいのぼりが泳いでいた。
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民家園を上から望む |
岡本太郎美術館 |
枡形山
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枡形門 |
枡形山展望台 |
枡形山は、生田緑地で最も高いところにあり、晴れた日には富士山や丹沢山系などの山々、都心の高層ビルや
横浜ランドマークタワーなどの眺望が楽しめる。あいにく展望はかすんでいて、富士山は見えず。
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枡形山山頂標識 |
多摩川や都心方面 |
枡形山の山頂は東西130m、南北80mの平坦地で眺望もよく、四方は容易に寄りつけないような
断崖で囲まれた要害の地をなしている。枡形城跡とも呼ばれており、かつてはここに城があった。
古くは、源頼朝が鎌倉に幕府を開いた頃、稲毛三郎重成がここ枡形山を城としたと、江戸時代に書かれた
『新編武蔵風土記稿』は伝えている。稲毛三郎重成は北条政子の妹を妻に迎え、源頼朝の重臣として
活躍した人物。その後、室町時代の永正元年(1504)には、山内上杉氏の討伐を狙っていた
北条早雲が軍勢を進めて枡形城に入った。そして、扇谷上杉朝良を助けて、山内上杉顕定の軍と多摩川の
河原で戦い、激戦の末、山内上杉軍を破ったと『家長手記』や『松蔭私語』では記している。また、先の
『新編武蔵風土記稿』では、戦国時代の永禄12年(1569)、甲斐(かい)の武将・武田信玄が小田原へ
出兵してきた時、この土地の豪族であった横山式部少輔弘成は、枡形山に土塁を築いて
後北条氏のために守りを固めたと伝えている。
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新宿高層ビル群 |
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十二支 |
枡形城址碑 |
方角と共に十二支の置物がおいてあった。
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輝け杉の子像 |
伊藤葦天の句碑 |
山頂の広場には碑が建てられ、郷土の生んだ文学者、伊藤葦天の句が刻まれている。
「馬場あとも やかたあとも 秋の風」
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飯室山展望台 |
スカイツリーも東京タワーも見えた。 |
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飯室山 |
展望台 |
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生田長者穴横穴 墓群 |
緑が鮮やか |
生田長者穴横穴があり、ここを下ると住宅地となった。
出土品や横穴墓の形態などから7世紀中ごろから後半にかけて築造された集団の
家族墓や一族の墓と考えられ、江戸時代の『新編武蔵風土記稿』などでも紹介されている
飯室山の北斜面に築かれた横穴墓群は、3つの谷に32基に及ぶ横穴墓で構成されている。
人骨や歯などのほかに、装身具や武器などが見つかっているとのこと。
現在は遊歩道が整備され横穴が見学できるようになっている。
一般的に、横穴古墳群は、斜面に横穴を築いて人間を埋葬したもので、人骨の他に、
土器や勾玉などの出土品が 出ることもある。横穴は斜面の砂層や弱い土質をくり
貫いた形が 多く、壁面には彩色が施された例もいくつかみられるようである。
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生田緑地の入口を振り返る。 |
登戸駅 |
帰りは登戸駅まで歩き、南武線に乗って、南多摩駅で下り、季の彩で汗を流す。
家にたどり着くと、万歩計は2万歩近くになっていた。