生田緑地 

2017年5月3日


   
下高井戸シネマ  レオナルドダビンチ 美と知の迷宮 

下高井戸シネマで、「レオナルドダビンチ 美と知の迷宮」という映画を見て、世田谷線と小田急線で、
向ヶ丘遊園駅まで行き、生田緑地を歩き、岡本太郎美術館に入った。そういう意味では美術に良く
触れる日でもあった。その後、枡形山の展望を眺めて、古墳群の穴を見て、住宅地に下りた。
登戸駅まで歩き、南武線に乗り、南多摩駅まで行き、温泉に入る。ぐるっと一周回った感じである。

   
下高井戸駅  山下駅 
下高井戸駅で世田谷線に乗り、山下駅まで行く。

   
 世田谷線 豪徳寺 

山下駅から小田急の豪徳寺駅に乗り換えて、向ヶ丘遊園駅まで乗る。

   
 向ヶ丘遊園駅前の案内板 生田緑地 



   
 生田緑地の広場 SL 


   
  奥の池 


岡本太郎美術館

   
樹霊   撮影ができる場所

岡本太郎美術館は、自然豊かな川崎市の生田緑地に位置。川崎市ゆかりの芸術家岡本太郎から
寄贈された美術作品及び資料を中心とした美術館である。常設展で、 「岡本太郎―赤の衝動―」展を開催されていた。

岡本太郎は「あなたの好きな色は何ですか?」と尋ねられると必ず「赤」と答えていました。
絵画作品でも象徴的に使われている「赤」は岡本太郎にとって炎や太陽、血、そして命の色でした
抽象絵画をこころざしたパリ留学中から1980年代にいたるまで、岡本は赤の色彩をもちいた作品を
数多く描いています。本展では、そんな岡本が生涯描き続けた「赤」の作品をご紹介します(川崎市HPより)

   
   

岡本太郎は1911年川崎市高津区に生まれ。父は漫画家の一平、母は歌人で小説家のかの子
夫婦仲は荒れ果て、一平は放蕩三昧に。かの子は「遊んでほしい」と泣きわめく幼い太郎を柱に括り付け、
創作に没頭したという。太郎が物心つく頃には両親と太郎・母の恋人と同居していた。
1929年、太郎が19歳の時に両親と母の恋人、書生の5人でヨーロッパへ行く。21歳でピカソの作品と出会い、
抽象画の道へ。だが“具象的なものと抽象的な要素、2つの異なるものがぶつかることで新たな
エネルギーが生まれる”という「対極主義」を確立。その後はソルボンヌ大学で哲学や社会学、
民族学を学んだ。ある日、「守るから弱くなるんだ。選択肢があったら必ず危険な方を選ぶ」と悟る。

   
   

   
   

   
   

   
 母の塔  

高さ30mの「母の塔」は、岡本太郎美術館のシンボルタワーである。子どもの日が近いのでこいのぼりが泳いでいた。

   
民家園を上から望む  岡本太郎美術館 


枡形山

   
枡形門  枡形山展望台 

枡形山は、生田緑地で最も高いところにあり、晴れた日には富士山や丹沢山系などの山々、都心の高層ビルや
横浜ランドマークタワーなどの眺望が楽しめる。あいにく展望はかすんでいて、富士山は見えず。

   
枡形山山頂標識   多摩川や都心方面

枡形山の山頂は東西130m、南北80mの平坦地で眺望もよく、四方は容易に寄りつけないような
断崖で囲まれた要害の地をなしている。枡形城跡とも呼ばれており、かつてはここに城があった。
古くは、源頼朝が鎌倉に幕府を開いた頃、稲毛三郎重成がここ枡形山を城としたと、江戸時代に書かれた
『新編武蔵風土記稿』は伝えている。稲毛三郎重成は北条政子の妹を妻に迎え、源頼朝の重臣として
活躍した人物。その後、室町時代の永正元年(1504)には、山内上杉氏の討伐を狙っていた
北条早雲が軍勢を進めて枡形城に入った。そして、扇谷上杉朝良を助けて、山内上杉顕定の軍と多摩川の
河原で戦い、激戦の末、山内上杉軍を破ったと『家長手記』や『松蔭私語』では記している。また、先の
『新編武蔵風土記稿』では、戦国時代の永禄12年(1569)、甲斐(かい)の武将・武田信玄が小田原へ
出兵してきた時、この土地の豪族であった横山式部少輔弘成は、枡形山に土塁を築いて
後北条氏のために守りを固めたと伝えている。

   
 新宿高層ビル群  

   
十二支   枡形城址碑

方角と共に十二支の置物がおいてあった。

   
 輝け杉の子像 伊藤葦天の句碑 

山頂の広場には碑が建てられ、郷土の生んだ文学者、伊藤葦天の句が刻まれている。
「馬場あとも やかたあとも 秋の風」

   
飯室山展望台   スカイツリーも東京タワーも見えた。


   
飯室山   展望台

   
生田長者穴横穴 墓群 緑が鮮やか 

生田長者穴横穴があり、ここを下ると住宅地となった。
出土品や横穴墓の形態などから7世紀中ごろから後半にかけて築造された集団の
家族墓や一族の墓と考えられ、江戸時代の『新編武蔵風土記稿』などでも紹介されている
飯室山の北斜面に築かれた横穴墓群は、3つの谷に32基に及ぶ横穴墓で構成されている。
人骨や歯などのほかに、装身具や武器などが見つかっているとのこと。
現在は遊歩道が整備され横穴が見学できるようになっている。
一般的に、横穴古墳群は、斜面に横穴を築いて人間を埋葬したもので、人骨の他に、
土器や勾玉などの出土品が 出ることもある。横穴は斜面の砂層や弱い土質をくり
貫いた形が 多く、壁面には彩色が施された例もいくつかみられるようである。

   
生田緑地の入口を振り返る。   登戸駅

帰りは登戸駅まで歩き、南武線に乗って、南多摩駅で下り、季の彩で汗を流す。
家にたどり着くと、万歩計は2万歩近くになっていた。