稲城
2020年5月2日
稲城駅北口の駐輪場で自転車を停めて、里山を歩く。駅に着く前に、常楽寺で参拝をする。
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常楽寺仁王門 |
六地蔵尊 |
常楽寺は、創建の年代は不詳だが、平安時代(12世紀前半)に制作されたと
いわれる阿弥陀三尊像(東京都指定文化財)を安置していることから、
その頃の開山と推定されている。その後、寺は永禄元年(1558年)に
法印良順によって再興された。本堂には寄木造の阿弥陀如来と両脇侍像がある。
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宝篋印塔 |
京王線の眺め |
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鐘楼 |
羅漢像 |
鐘楼の周囲を十六羅漢像が取り巻いている。
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地蔵菩薩塔 |
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○地蔵菩薩塔(市指定。昭和51年)
寛文4年(1664)に長沼村、下新田の住人たちによって建られ、稲城
市内に現存する最古の石塔です。「念佛供養想衆十人庚申供養相衆七人」と記す
銘文から、当時の農村に広がりつつあった庚申供養とも結びついているようです。
青面金剛が主尊として一般化する以前の古い庚申信仰の様子をも示しています。
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阿弥陀堂 |
伝教大師の幼年像 |
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千手観音菩薩と虚空蔵菩薩 |
不動明王と阿弥陀如来 |
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勢至菩薩と大日如来 |
普賢菩薩と文殊菩薩 |
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五重塔 |
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稲城駅前 |
宅地開発 |
稲城駅から山道のある方向に歩いていったつもりが、宅地開発がされている階段を登っていた。
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左、丘の上はありがた山方向 |
宅地開発 |
稲城市南山の区画整理工事のため、これまで京王よみうりランド駅から
南山へ続く散策ルートになっていた通称「ありがた山」地区は、南山の西部とは分断されている。
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稲城養蜂道場 |
稲城養蜂道場あたりから山道らしくなってきた。
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しろやまのもり |
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ありがた山やよみうりランド方面には行けないようである。立ち入り禁止になっている。
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れんげつつじ |
妙見寺 鳥居 |
稲城駅の方に戻ってきて、妙見寺を参拝する。
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妙見寺の山門 |
六地蔵尊と地蔵菩薩塔群 |
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鐘楼塔 |
妙見寺 |
天台宗寺院の妙見寺は、神王山観音院と号す。創建年代は不詳だが、
天平宝字4年(760)の創建とも天永3年(1112)の創建ともいい、
妙見宮を残し、現在に至るまで神仏混淆の残る寺院である。
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二十三夜塔の前で蛇より |
妙見尊の参道の入り口の左手、二十三夜塔の石碑の前に、
藁でよられた大蛇の頭の部分が安置されている。
二十三夜塔の前で蛇の頭の部分と胴の部分をつなぎ合わせる。
二十三夜塔とは、庚申講(こうしんこう)と同じく民間信仰のひとつとして、
人々が集まって月を信仰の対象として「講中」といわれる仲間が集まり、
飲食をし、お経などを唱えて月を拝み、悪霊を追い払うという
月待行事(月待行事)を行い、その記念や供養のあかしと
して建てられたもので、月待塔(つきまちとう)ともいう。
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大蛇の尾は参道の脇を登る。 |
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蛇より行事 以下「妙見寺」HPからの引用
稲城市百村の妙見尊で毎年8月7日に行われる伝統行事です。
寛文二年(1662)、諸国に疫病が流行した折に、百村地区の
疫病退散・雨乞い・五穀豊穣などを祈るために始まりました。
当日の朝、北斗七星になぞらえた当番の村民7名が青カヤを刈り、
小束にまとめたものを、午後2時頃から、参集した村民などにより、
頭・胴体とより始め、完成した後に集まった人々が、尻尾から妙見尊
山頂に向け担ぎ出し、最後に頭と胴体をつなぎ、妙見寺住職の
魂入れによって行事は終了します。より上げた胴体に触れると、
一年間病気をしないという言い伝えがあります。素朴な行事ですが、
伝統があり、お宮(妙見尊)の行事をお寺(妙見寺)の住職が執り行う大変に
珍しい行事で、平成4年に東京都の無形民族文化財に指定されました。
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奥の院 |
筆塚 |
奥ノ院は北辰妙見尊がご本尊で、寺のご本尊は阿彌陀如来、他に観音菩薩を
安置しており、多摩川三十四ケ所観音霊場巡り第三十番札所である。
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筆塚 |
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筆塚は書道の師や文筆家の功績をたたえて建てられる場合が多く、教育の記録として重要である。
この筆塚は文政六年(1823)に、文人であり書家でもあった百瀬雲元が、多くの門人たちの協力のもとに建てたものである。銘文によると、菅原道真を祭る石祀とともに、廃筆を埋めた筆塚を建立したことが記されている。
百瀬雲元は宝暦十三年に百村の名主榎本六左衛門の二男(冨八郎)として生まれ、後年江戸に出て百村冨之進と改名し御家人となった。そして書家の百瀬耕元に師事し、雲元と称して多くの門人を育てたといわれる。天保二年に隠居して故郷の百村に移り住んだ。
百村の人々からは筆塚様と呼ばれて崇められ、学業成就の信仰を集めた(稲城市教育委員会掲示より) |
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稲城駅近くから常楽寺の墓石群 |
ありがた山の墓石群がみえる。 |
2020年5月5日
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「馬頭観世音石造物群」 |
神社 |
自転車で、よみうりランド駅に向かう途中、馬頭観世音石造物郡がある。市内に現存する
最古の物といわれる馬頭観音で、渡船場道に沿って流れる水路(大丸用水)の脇に
連なるように石碑が建っている。
稲城市指定文化財
馬頭観世音塔
所在
稲城市矢野口旧渡船場道沿
指定
昭和五十一年二月十九日
地蔵菩薩とならんで庶民の信仰を集めた菩薩が観世音菩薩であるが、江戸時代後半期から明治・大正にかけて各地に馬頭観世音の石塔が造立されるようになったのは、農村において馬の果たす役割がたいへん増大したことと深い関係があると思われる。
この馬頭観世音塔は、多摩川のもとの渡船場の近くにあり、文化十三年(1816)に造立され、市内に現存する最古のものである。「馬頭観世音」と文字だけを彫るのが一般的であるから、この石塔のように馬頭観世音を浮彫にしたのは数少ない貴重な作例である。台石には願主谷埜口邑(矢野口村)をはじめ造塔に協力した相当に広範囲な十九の村名が記されている。この渡船場の重要さをよく示しているといえよう
平成三年十二月十日
稲城市教育委員会 |
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地蔵菩薩 |
地蔵菩薩と銀杏の木 |
お地蔵さまは大丸用水と府中街道(川崎街道)に挟まれたところにある。
矢野口の渡船場から続く渡船場道と川崎街道が交差するこの場所は、古くから交通の要所として栄えて来ました。この場所から東は川崎、西は八王子、南は大山、北は多摩川を渡り江戸方面へと続いていました。
この場所の地蔵菩薩は村人の幸を守るために正徳三年(1713)に建立し祀られたもので、台石には遠く生田や柿生の人の名前も刻まれていて広い範囲の人々からも信仰されて来たことが分かります。この地蔵菩薩は昭和三年に川崎街道の拡幅工事により道路の南側から現在地に移されましたが、稲城市指定保存樹林である銀杏の木も地蔵菩薩と共に移植されました。その時に大きな枝は切り詰めましたので樹高はありませんが幹は年輪を感じ、また直径5〜15糎位、長さが20〜50糎位の気根が十数本下がり素晴らしいものでした。また移植の際に、経典供養として法華経を記した平たい丸い小さな石が約100瓩位発見され、現在元通りに埋められています。
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よみうりランド駅に自転車を置き、巨人の道の階段を登って、ジャイアンツの
グラウンドから城山の道を歩く。
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シャガ |
家の軒先で休憩の椅子が用意されていた |
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六地蔵 |
寿福寺 |
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山門 |
寿福寺に着いたが、新型コロナウィルスの影響で、山門は閉まっていた。
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農業支援センター |
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遊歩道の階段を登り、菅桜公園へ。 |
管さくら公園に咲く藤棚 |
菅さくら公園から「東京ヴェルディフットボールク ラブ」を見ながら歩き、
大通に出て、西菅団地沿いを歩いて、その後、旧三澤川の暗渠を
通り、三澤川に合流して、三澤川沿いに歩いて、小澤城址に登る階段に出る。
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多摩自然遊歩道を歩く |
浅間山 |
小澤城址に出て、よみうりランドの舗装された道まで歩き、よみうりランド駅に向かう。