2020年4月29日
妙覚寺の寺号標 | 地蔵菩薩像 |
よみうりランド駅に自転車を置いて、妙覚寺を目指して、歩き出す。
妙覚寺は、臨済宗建長寺派寺院の寺である。
足利義春が開基の寺院で480年前と言われている。
本堂 | 参道の石段脇に観音菩薩像 |
不動明王像 | 筆塚 |
筆塚の由緒 永年にわたる学業指導の功績と徳をたたえて、筆子代表四ヵ村四十九名によって嘉永7年(1854)に建立されたものである。石碑の表には指導者、角田すず女の「紫の雲の迎を待ばかりうき世の事はとにも角にも」という辞世の歌が刻まれている。また台石の表、左右側面には四ヵ村(矢野口村、長沼村、押立村、菅村)四十九名の筆子代表者の名前が刻まれ、指導者の功績の大きさと指導範囲の広さを示している。 稲城のみならず、周辺の地域にも関係した貴重な教育資料である。 (稲城市教育委員会掲示より) |
鐘楼 | 板碑 |
板碑は青石塔婆ともよばれ、先祖の追善供養や自己の極楽往生を祈る逆修供養のために立てられた供養塔である。板碑の造立は鎌倉時代から室町時代にかけて全国的に行われたが、特に関東地方では秩父産の緑泥片岩を材料とした武蔵型板碑の造立が盛んであった。 この板碑は市内最大(高さ112p)のもので、室町時代中頃の享徳三年(1454)秋の彼岸の中日に道秀という人物が逆修供養のために立てたものである。円光で囲まれた梵字は阿弥陀三尊(阿弥陀・観音・勢至)をあらわし、下の方に左右二列ずつに書かれている梵字は光明真言である。全体的に見て文字や形態が整っており、保存状態も良好で、市内の板碑の代表的秀品である。(稲城市教育委員会掲示より) |
弁天像 |
威光寺に行くが、弁天洞窟は、現在、閉鎖中で入ることができなかった。
威光寺は、草厚山小澤院と号し、坂浜の高勝寺の末寺。江戸時代の
地誌『新編武蔵風土記稿』には、延宝3年(1675)より穴澤天神社の別当寺
として存在したことが記されており、『江戸名所図会』には、天明年間(1781~1789)
に火災のために堂舎や記録類を消失したことが記されている。
弁天洞窟は、元々この場所に存在した横穴墓を改造して造られたといわれている。
威光寺で作業をしていた方にありがた山の行き方を聞くと、妙法寺から
行く道を教えていただけた。
工事現場 |
よみうりランドの方に歩いていって、工事現場を右側に見ながら、
S字の坂を上ったあたりに、日本妙法寺があった。
日本妙法寺 |
日本妙法寺多摩道場 | 仏舎利塔 |
日本山妙法寺の多摩仏舎利塔と多摩道場は東京都稲城市矢野口にある。
ここの道場には日本山妙法寺の事務局が置かれている。
日本山妙法寺大僧伽(にっぽんざんみょうほうじだいさんが)は、藤井日達創設の
日蓮系の宗教団体。世界各地で平和運動を展開していることで知られる。
黄金に輝く釈迦如来 | 開発中 |
妙法寺からありがた山の方に歩けると思っていたら、妙法寺で作業をしていた人に聞くと
行けないとのこと。妙覚寺まで戻らないといわれた。開発事業で行けなくなっているようだ。
妙覚寺方向まで戻る。
ありがた山石造り群 | 無縁仏の石造り群 |
ありがた山は、よみうりランド通りを少し上がり、妙覚寺脇の小径に入って、
墓地を登り詰めたその先にある。 山の上まで幾段にも石仏、
石像がびっしりと並び、その数は4千体を超えるといわれている。
当地を管轄されているのは妙覚寺。先祖代々から無縁仏の
受け入れを行い、日徳海と協力関係でこれらを維持してたようである。
無縁仏の石造り群 | 無縁仏の石造り群 |
関東大震災後、震災の傷も癒えつつあった昭和15年から18年頃にかけてのこと。
都内駒込周辺の廃寺などに放置されていた無縁仏や石仏・石像を、日徳海という
宗教団体の人々が1つ1つこの地に運んでありがた山の墓石群が誕生した。
無縁仏の墓石を運ぶときに、「ありがたや、ありがたや」と唱えた
ことからありがた山の名称が生まれたと伝えられている。
現在、一帯は南山東部土地区画整理事業による宅地開発が行われており、
部分的に消滅の危機にある。つまり、南山東部土地区画整理事業では、
ありがた山墓石群のある場所は、周囲の山林と共に山自体を崩して平らにし、
幹線道路の沿道部にすることになっているらしい。先まで登ると、すぐ傍まで
山の土砂が削り取られていた。宅地開発事業を行っている風景が目に入る。
何とか墓石群は残してほしい。
ありがた山から西側を見る | 宅地開発事業 |
南山東部土地区画整理事業は、稲城市南東部に位置する約87.4haの規模で、
西側は京王相模原線稲城駅に、東側は京王よみうりランド駅にそれぞれ近接。
南側は東京よみうりカントリークラブのゴルフ場。
区域内は高低差約60mの起伏の激しい雑木林で、もっとも高いところは標高約129m。
戦後は主に山砂採取場として利用され、昭和45年、市街化区域に編入されたが、
ガケ地の改修の費用負担が大きいことやバブル崩壊による経済環境の悪化、
環境保護団体による反対運動などから開発計画は難航。
ようやく平成18年、区画整理法の認可を受けてスタートした。
施行期間は平成18年4月から同32年3月末。地権者は260名。
総事業費は406億円。公共減歩率は約35%、保留地減歩率は約32%、
合算減歩率は約68%。計画戸数は約2,500戸(うちマンション400〜500戸)。
上の方に見える建物は市立南山小学校 |
稲城南山は、多摩丘陵の一角に位置する広さ87ヘクタールの広大な里山。
谷地が保たれ、オオタカやタマノカンアオイなどをはじめとする
希少種が生息するなど、豊かな自然が保たれている。スタジオジブリ・
高畑勲監督のアニメ映画「平成狸合戦ぽんぽこ」の舞台ともなった場所でもある。
井戸があり、地蔵さんが祀られていた。 | 左上の切り立った場所に家が並ぶ。 |
かつて、ありがた山最上部からはよみうりゴルフクラブのコース脇を通って
稲城駅に抜けるハイキングコースがあったようだが、現在は
開発工事のせいでここから先は通行できなくなっている。
穴澤天神社鳥居 | 穴澤天神社本殿 |
穴澤天神社は、孝安天皇四年の創建にして、主祭神は少彦名命(すくなひこなのみこと)を
御祀りした社で、「延喜式神名帳」所載に記されている古社で、
多摩八社の内の一社であり、明治六年郷社に列せられた。
境内下に、横穴厳洞があるが、これがすなわち穴澤の起源である。
元禄7年(1694)に新たな社殿が造営された際、菅原道真公を合祀。
大正7年には、同じ村内に鎮座していた国安神社の大己貴命を
合祀して、縁結び、開運の神として以後崇敬されている。
境内にある階段から小澤城址の方に登る場所があり、登る。
小澤城址説明版 | 小澤城址説明版 |
小沢城は三沢川を北の濠として東西約300m南北約150m標高
約100m程の丘城。、三つの峰から成る東西に長く延びる尾根上にに
築かれた城で北側の麓には穴沢天神社があり現況、竪堀、物見台、
馬場、井溝などの址が存在し城の各所には家臣団の屋敷群が点在。
城全体の造りは古く鎌倉初期の城山の城郭を現在に残している。
富士講碑 | 小澤城址碑 |
小沢城は平安時代末期、稲毛三郎重成(または重成の子、小沢小太郎)によって
築かれた城で、鎌倉道・矢野口(多摩川)の渡しを抑える交通の要衝でした。
北条氏康が初陣を飾った「小沢原の戦い」では、氏康はこの城から
出陣して上杉朝興を撃退しています。その後、戦国時代以降は廃城になったと
考えられています。現在、城址は緑地公園として保存されており、
その中には空堀や物見櫓、土塁などと思われる遺構が残っています。
空堀 | 浅間山と浅間神社 |
物見台と空堀 小沢峰の北側は絶壁が続き当時は山裾には多摩川本流が流れていて、自然の要害となっていたにもかかわらず更に山の斜面を掘って「空掘」とし敵の侵入を防いだところです。またこのような空堀は浅間山の東側にも設けられています。 |
浅間山と浅間神社 小沢城は標高約90mの浅間山・小沢峰(物見台)・八州台(富士塚)の三つの峰を中心に構成されていて、地元では一般に「天神山」とよばれ親しまれています。浅間神社は富士山信仰の神社ですが、碑には「武州橘樹郡菅村 世話人惣村中 文化三寅年」と刻んであります。この付近から小沢城の防御投石用と思われる「つぶて石」が多く発見されたそうです。 |
浅間山と浅間神社 | 三澤川と水門 |
辯財天様が祀られており | 穴澤天神社の御神水とされる湧き水 |