石井十次記念館
2014年10月19日
研修が岡山国際ホテルで行われ、研修終了後、近くに石井十次記念館があるということで、見学をさせていただいた。
石井十次は岡山市に岡山孤児院を創設した。岡山孤児院は、イギリスのバーナードホーム孤児院にならった家族制度で
子どもたちを10〜15人ぐらいに分けて、それぞれに一つの小寮舎を与え、その小寮舎に一人の保育士を置いた。
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石井十次記念館 |
石井十次記念聖園内にある銅像 |
石井十次生誕100年となる1966年(昭和41年)に石井十次記念館(岡山孤児院の家族舎、一棟のみ)が
財団法人石井j十次記念聖園に譲渡され、その後、石井十次記念聖園の解散により、昭和56年(1981年)に
児童養護施設を運営する社会福祉法人新天地育児院に譲渡される。今では岡山孤児院のありし日の姿を伝える唯一の建物。
子供10〜15人と主婦(保育士)が暮した家族舎は、当時80棟ほど有ったといわれているが、残っていたその1棟が
「石井十次記念聖園」(児童養護施設・新天地育児院敷地内=岡山市中区門田本町)に原形で移築されたのである。
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新天地育児院前 天使像 |
新天地育児院標識 |
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新天地育児院 |
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十次は、慶応元(1865)宮崎県児湯郡上江村(現在の高鍋町)生まれ。15歳で海軍士官を志したが、病気にかかり帰郷。
16歳で結婚し上江小学校の教師となる。半年後、警察署の書記になったものの難病を患い、診察を受けた
医師に勧められて岡山の医学校へ入学。明治20年、岡山県邑久郡大宮村上阿知診療所で代診。
四国巡礼途上の母と子に出会い、その子どもを預かったことをきっかけとして、児童救済事業に入っていく。
三友禅寺の一画を借り、「孤児教育会」(後に「岡山孤児院」と改称)の看板を掲げた。その事業は、
一時期1200人に達するなど、巨大施設となった。わが国で最初の本格的な孤児院。
郷里の宮崎県茶臼原に分院を設置し、開拓事業を開始するとともに岡山から児童たちを移住させた。
茶臼原の地で農業的労作教育を柱にした「散在的孤児院」(里親村)を作ろうと決意し、やがて
「時代教育法」(「幼児は遊ばせ、子は学ばせ、青年は働かせる」)を編み出した。また茶臼原の原野を開墾し、
自然の中で自由に遊び学ばせる一大ユートピアの建設に取りかかったのである。
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新天地育児院事務所玄関 |
石井十次 |
岡山孤児院12則
@家族主義(小舎制) 子供たちを10〜15人の集団に分けて、一人の主婦(保育士)をおき、その家庭の独自性を尊重
A委託主義(里親への委託) 乳幼児を里子としていたく。金銭を渡して養育委託
B満腹主義 食べる量は無制限 C実行主義 言葉(くち)より行動を示して導く
D非体罰主義 暴力禁止、相手を責めず自らを問い直す。十次の意識の高さがうかがえる。
E宗教主義 キリスト教の強制ではなく、信仰の精神を重んじる。
F密室教育 ほめる・叱ることは一対一で行う。 G旅行教育 見聞を広めること。
H米洗教育 米ぬかを洗い落とせばきれいな米になるように繰り返して教えること。
I小学校主義 施設内に小学校を設立して正規の教育を施す。
J実業主義(職業訓練) 労働自治を目指して、取り組む各種職業教育
K托鉢主義 施設の維持のため早くから実行し施設経営の中心である各種寄付金を集める。
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茶臼原憲法 |
記念館で説明を聞く。 |
石井十次は、大正2年(1913)、茶臼原孤児院の将来を夢見て、「茶臼原憲法」を発表
1.天は父なり、人は同胞なれば お互いに相信じ相愛すべき事。
2.天父は恒に働き給う、我等も 倶(とも)に労働すべき事。
3.天恩に感謝のため、我等は禁 酒、禁煙を実行し、収入の十分 の一を天倉に納むる事
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当時の写真などの資料 |
憲法 |
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石井十次銅像と記念撮影 |
十次の心
・孤児のために命を捨てて働かん
医者になるものは大勢いるが、孤児を救う者は少ない 自分の一生を孤児救済にささげよう。
・鮎は瀬にすむ 鳥は樹に宿る 人は情けの下に住む
・幼児は遊ばせ、子は学ばせ、青年は働かせる
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児童養護施設「新天地育児院」 |
「南野育成園」理事長、叶原土筆さん |
研修でも、「南野育成園」理事長、叶原土筆さんが、石井十次のことを語っていただけた。
十次の長女・友子の婿となったのは洋画家・児島虎次郎である。
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愛妻の死 |
石井十次と大原孫三郎 |
岡山でキリスト教を伝道していた宣教師ぺれー、ケーリ、アダムスらが、米国の教会に石井の孤児救済事業を
報告し、米国で募金活動が行われ、多くの献金が集まった。さらに石井を支えたのが大原孫三郎だった。
公的な補助のない中、活動資金は大原ら篤志家の浄財で運営された。
「神が喜ばれるような事業をすれば、神は必要な資金を与えてくださる」と信じ、孤児を無制限に預かる。
明治39年には孤児が1200人に膨れ上がった。この年に里親制度も確立している。
晩年は郷里である宮崎県児湯郡の広大な茶臼原(高鍋町・木城町・西都市にまたがる)に孤児院を移転し
大正3年1月30日午前11時頃、初孫 児嶋こう一郎が生まれたと電報が来た。それを聞いた十次はわずかに頷き、
同日午後2時すぎ、志なかばにして倒れる。48歳であった。石井の没後、岡山孤児院は、
大原孫三郎(倉敷紡績社長)が孤児院長を3年間勤め、大庭猛(貿易商)、辰子夫人と事業は引き継がれるが、
岡山孤児院、茶臼原孤児院ともに大正15年(1926年)に活動を終了するに至った。
昭和20年8月、第二次世界大戦終戦後、石井十次の孫、児嶋こう一郎は家や家族を亡くした子どもたちの為に、
同年10月、児童養護施設をつくる事を決心し「石井記念友愛社」を設立した。
現在、ひ孫にあたる児嶋草次郎氏が児童養護施設、保育園などを運営している。
研修であった里親をされている大学時代の同窓生は「石井記念友愛社」から委託された子どもを育てているとのこと。