一夜城から小田原城 

2014年1月26日


一夜城跡を歩き、小田原城に登った。

   
神奈川県立生命の星・地球博物館  城道(東口) 


一夜城には駐車場があるので、車で行くこともできるのだが、せっかくだから少し歩こうということで、

地球博物館に車を止めて、一夜城までの約3.2キロの道のりを歩くことにした。


   
築城の石  公園入り口からの登城口 
「国指定史跡」石垣山一夜城
史跡石垣山は、JR早川駅の西方約2.5km、国道1号線から東へ約1kmのところにあります。 また小田原城まで僅か3kmのところにあり、標高257mの本丸からは小田原城や城下の様子が 一望できます。 石垣山は、もと笠懸山、松山などと呼ばれていましたが、天正18年(1590)豊臣秀吉が 小田原北条氏の本拠小田原城を水陸15万の大軍を率いて包囲したとき、その本営として 総石垣の城を築いてから石垣山と呼ばれるようになりました。 この城を秀吉が一夜にして築いたようにみせかけたという伝承から、石垣山一夜城とか 太閤一夜城などとも言われています。 秀吉は、この城に滞在していた100日余りの間に天皇の勅使を迎えたり、千利休や能役者、 猿楽師等を呼び寄せました。また自ら淀君などの側室も呼び、参陣の諸大名にもこれにならうよう 勧めたと言われています。この城は単に小田原城攻めの本営であるというだけでなく、 太閤秀吉の威信を示すと共に、長期戦に備えた本格的な城構えであったといえます。 この城は関東で最初につくられた石垣の城です。石積みは秀吉が連れてきた近江の穴太衆による 野面積(のづらづみ)といわれるもので、小田原藩の管理下におかれていた江戸時代にも、 度重なる大地震に耐え、今日まで当時の面影を大変よく残している貴重な城跡です。 この石垣山は、土地所有者の松岡氏を始め地元関係者の御厚意により、昭和62年度に 公有地化することができ、現在歴史公園として一般に公開しています。
 (平成2年3月 小田原市)


石垣山は、本来「笠懸山(標高241m)」と呼ばれていたが、天正18年(1590)豊臣秀吉が小田原北条氏を

水陸15万の大群を率いて包囲し、その本陣として総石垣の城を築いたことから「石垣山」と呼ばれるようになった。

秀吉は、この城に淀君ら側室や千利休、能役者を呼び茶会を開いたり、天皇の勅使を迎えたりしていた。

小田原合戦は、天正18年(1590年)4月3日、豊臣秀吉は大軍をもって小田原城を包囲した。
迎える北条軍は6万の軍勢で関東最大の巨城、小田原城にたてこもった。
豊臣秀吉の天下統一の最後の仕上げともなる一戦であった。

   
左手が二の丸、 右手前に登っていくと本丸。石垣が残る  二の丸(馬屋曲輪)

二の丸は広場になっていた。

 
石垣山一夜城の構造
石垣山一夜城は、最高地点の天守台の標高が261.5mあります。 小田原城の本丸より227m高く、また小田原城までの距離はわずか3kmと近く、 眼下に小田原城やその城下はもとより、足柄平野や相模灘、遠くには三浦半島や 房総半島をも望むことができます。小田原城包囲軍の指揮をとるには最も適した場所といえます。 この城が、石垣山一夜城又は太閤一夜城と呼ばれるのは、築城にあたり、山頂の林の中に 塀や櫓の骨組みを造り、白紙を張って白壁のように見せかけ、一夜のうちに周囲の樹木を伐採したためと 言われています。しかし、実際には約4万人が動員され、天正18年の4月初めから6月下旬までの80日間が 費やされました。 城の縄張りは南北方向に走る尾根を軸にして、その最高地点に本丸と天守台を設け、 南には西曲輪と大堀切を隔てて出城が、また北には二の丸や北曲輪、井戸曲輪等が配置されています。 このほか本丸の東には南曲輪等の小規模な曲輪群があります。こうした曲輪の配置については、 享保5年(1720)に小田原藩によって作られた絵図等でも知ることができます。 城道は、井戸曲輪の北方から二の丸を通って本丸へ至るルートと、南曲輪から本丸へ至る東口ルートの 二筋があり、いずれの城道も関白道へ通じていました。城内に入ると通路には枡形と呼ばれる屈曲した 構造を持ついくつかの門がありました。門には瓦が用いられており、豪壮なその構えは 秀吉の威信を示していました。 現在、石垣や曲輪などの遺構が確認できる範囲は出城から北曲輪までで、 南北の延長は約550m、東西の最大幅は275mあります。
 (平成2年3月 小田原市)

この城が、一夜城と呼ばれるのは、秀吉が築城にあたり、山頂の林の中に塀や櫓の骨組みを造り、

白紙を張って白壁のように見せかけ、一夜のうちに周囲の樹木を伐採し、それを見た小田原城中の将兵が

驚き士気を失ったためと言われている。実際にはのべ4万人が動員され、天正18年4月から6月まで

約80日間が費やされたといわれている。

城の構造はわりあいシンプルなもので本丸、二の丸、三の丸が梯郭式に配列されている。

   
 本丸跡  展望台

   
本丸展望台より小田原城を望む  相模湾 

展望台から小田原城が見えた。小田原城までは直線で3kmほどとのこと。

現在でも肉眼で小田原城を見下ろすことができ、ビルなどの建物がなかった当時では、よく見えたと思われる。

小田原城下だけでなく三浦半島や房総半島まで一望できる。

   
 天守台跡 本丸跡の神社でお参り 

   
  西曲輪跡 



   
「右本丸跡 左西曲輪  右南曲輪」の石柱   南曲輪下の石垣


一夜城の石垣は穴太(あのう)衆による野面積みという積み方である。

野面積みとは自然の石や素割の石をそのまま積む技法で、

お城の石垣としては初期の積み方ですが、排水に優れている。


小田原城

小田原城は戦国時代から江戸時代にかけての平山城で、北条氏の本拠地として有名である。

もとは、大森氏が小田原地方に進出した15世紀初めごろに築城したといわれ、明応4年(1495)に戦国大名

小田原北条氏の居城となる。戦国時代には関東の拠点として日本最大規模の城郭に発展、上杉、武田の侵攻

をも防ぎ難攻不落を誇る。しかし秀吉の小田原攻めでは決戦か籠城かで揉めた「小田原評定」の末、時の

城主・氏直が降伏して落城。
江戸時代を迎えると徳川家康家臣・大久保氏が城主となり城の規模は三の丸以内

に著しく縮小された。明治3年に廃城となり、ほとんどの建物は解体され、残っていた石垣も大正12年(1923)の

関東大震災によりことごとく崩れ落ちてしまった。
現在の天守閣は昭和35年(1960)5月に、宝永時代の設計図

や模型を参考に鉄筋コンクリートで外観復元されたものである。

   
 馬出門  

馬出門は土塀で囲まれた枡形構造となっている。

   
本丸に復興された天守閣   

小田原城 

小田原城は室町時代に大森氏が築いた山城が前身で、その後戦国大名小田原北条氏の居城となってから関東支配の中心拠点として次第に整備拡張され、豊臣氏の来攻に備えた城下を取り囲む大外郭の出現に至って城の規模は最大に達し、前例を見ない巨城に発展しました。
小田原北条氏滅亡後は徳川氏の譜代大名である大久保氏が城主となり江戸時代になると三の丸以内に規模が縮小されましたが稲葉氏の時代に行われた大規模な工事によって近世城郭として生まれ変わりました。次いで再び大久保氏が城主となり東海道をおさえ、箱根をひかえた関東地方防御の要として幕末に至りました。明治3年には廃城の方針が出され、城内の主な建物は解体されました。城址は国の史跡に指定され「城址公園」として現在も様々な整備が続けられています。
(パンフレットより)


   
天守閣登城口  小田原天守閣より一夜城を望む 


 寛永11(1634)年には三代将軍徳川家光が小田原城の天守閣に登り、武具を見たり展望を楽しんだという記録が残っている。元禄16(1703)年の大地震のときには、小田原城のほとんどの建物が倒壊、焼失してしまうが天守閣は宝永3(1706)年に再建され、明治3(1870)年の廃城まで小田原のシンボルとしてそびえていた。
現在の天守閣は昭和35年5月に市政20周年の記念事業として復興したもので、宝永時代の再建時に作成された引き図(設計図)や模型を参考に鉄筋コンクリートで外観復元したもの。内部は、古文書、絵図、、武具、刀剣などの歴史資料の展示室となっている。標高約60メートルの最上階からは相模湾が一望でき、よく晴れた日には房総半島まで見ることができる。
(看板資料より)



   
小田原市内を望む  箱根方面の山