岩村 

2019年5月3日


恵那駅 恵那駅から明智駅までの路線図

愛知の実家に帰るついでに、恵那から明智線に乗り、岩村城を目指して、行く。

   
 明智線  極楽駅

明智線に乗っていると、途中に「極楽」という駅があった。

   
岩村駅   

   
女城主の里  伝鴨長明塚 

江戸時代、岩村藩三万石の城下町として栄えた恵那市岩村町。
1998年「重要伝統的建造物群保存地区(重伝建地区)」に選定されて、
まちの人たちによって美観が守られてきた地域。現在も、保存地区内では
地元の商店街として商いが営まれており、生活感のある町並みである。

   
   


保存地区内には、木村邸・土佐屋・勝川家・柴田家・上町まちなか交流館といった旧家が
一般公開(一部施設は有料)されており、当時の面影に触れることができる。

   
柴田家(いわむら美術の館)   原田芳洲 肖像

いわむら美術の館はもともとは柴田家の建物。明治時代の典型的な住宅形態で、
平成14年より整備工事を行い、平成15年7月にオープン。建物内には岩村で暮らした
画家 原田芳洲の絵画を中心とした展示がされていた。
昔ながらの建物と一緒に見ることができる。

   
   

   
 寄贈された五月人形 下村歌子の肖像画 

昭和39年、春日井市の方から、自分の子どもが成長し、
五月人形を家で出さなくなっったので、寄贈されたとのこと。

   
 あしざわや  

   
高札   庚申堂

   
庚申堂前の石造物群   庚申堂前の石造物群

 庚申堂前の石造物群で、右から二番目は万治の作仏様式

   
勝川家 離れの2階の部屋から  書院 床柱は皮付きの赤松

勝川家は屋号を「松屋」といい、江戸末期から台頭した商家。江戸後期の
建物で、木造2階建て2軒の建物からなっている古い家。室内は、
書院・茶室・使用人部屋などがあり、往時の暮らし向きを伝えている。

   
   

   
三学戒   佐藤一斎

『三学戒』
少而学則壮而為有。( 少にして学べば、則(すなわ)ち壮にして為すこと有り )
   壮而学則老而不衰。( 壮にして学べば、則ち老いて衰えず )
   老而学則死而不朽。( 老いて学べば、則ち死して朽ちず )  (言志晩録60条)

佐藤一斎は、江戸時代後期の儒学者。門下生には、佐久間象山、山田方谷、
渡辺崋山などがおり、一斉の著書である「言志四録」は幕末の西郷隆盛、
勝海舟、坂本竜馬など幕末の志士に大きな影響を与えたと言われている。

   
  勝川家 

   
   グリーンハーブ

昼は、グループハーブで、パスタのランチを食べる。イタリアンの店で、洋風の雰囲気のある店である。

   
太鼓櫓 歴史資料館

太鼓櫓は、歴史資料館駐車場にある。岩村城で再建されている建物はこれだけである。
江戸時代初期、時の藩主松平家乗(いえのり)公が、平和な時代になり、
城主が城の山頂に住む必要がなくなったとして、城の麓に藩主邸を造営した。
以後その場所は政治の中心として機能をはたす一方、『太鼓櫓』が設けられ城下に時を知らせた。

   
 佐藤一斎 幕末の儒学者であり思想家  岩村城 登城口

岩村城は、中世から明治維新まで存続した城。現在は、石垣、土塁の全遺構を
見ることが出来る。武田氏の家臣・秋山信友と「おつやの方」で有名な城。
標高721m、比高153mの山城。鎌倉時代に遠山荘の地頭に
源頼朝の重臣・加藤景廉(かとう-かげかど)が任じられたことから
岩村城の歴史が始まる。加藤景廉の長男で岩村城主の加藤景朝が、
地名から遠山景朝(とおやま-かげとも)と称して、遠山氏の初代となる。
遠山氏は、岩村城を本城として遠山十八城と呼ばれる支城を築き、
東美濃に勢力を拡大した。 元亀元年、東美濃へ侵攻した武田氏と遠山一族は
上村合戦に破れ、城主遠山景任はこの合戦で受けた負傷により没する。
景任死後の元亀3年、景任の未亡人おつやの方が守る岩村城を武田の
家臣秋山信友が攻め、おつやの方と結婚を条件に和議が成立して、
秋山信友が城主となる。これに激怒した信長は岩村城を攻略し、
信友らを皆殺しに、おつやの方を逆さ磔にした。

   
下田歌子歌碑   下田歌子略伝

下田歌子歌碑「綾錦着てかへらずば三国山 また再びは越えじとぞ思ふ」
明治14年18歳で上京するときの歌で、強い決意で旅立つ様子がうかがえる。

   
石畳を歩く   初門

登城坂(石畳)の胸を突く急峻は、岩村城の要害の一つで山城の特殊性を感じることができる。
初門は、右に曲がって左に曲がっていく。敵が攻めてきたときに一気に登れないようにしている。

   
   土岐門跡

土岐門は岩村城第二の門で、伝承によれば城主遠山氏が土岐氏を破って
その居城の城門を奪い、ここに移したのでこの名前が付けられたそうである。

   
 霧が井 六段の石垣 

霧が井。敵に急襲されたとき、ここに蛇骨を投げ入れると、霧が吹き出て城を覆い隠したとかいわれる。
先に進むと六段の石垣が見えたが、手前を右手に入り、二ノ丸からまわる。

   
   恵那山

   
昇龍の井戸   岩村城跡

岩村城は天然の峻険な地形を利用した要害堅固な山城である。
日本一標高の高い場所に建てられていることから、奈良県の
高取城・岡山県の松山城と並ぶ日本三大山城の一つにあげられる。

   
 本丸西側の2段の高石垣  本丸南に延びる堀切

岩村城は山城であり、大規模な城域と多彩な表情を持つ石垣が魅力的である。
城は明治維新まで存在していたが、明治6年政府の廃城令により
全て取り壊され、現在は城壁のみが残っている。

   
   本丸裏門

本丸一帯の縄張りは複雑で、幾重にも石塁が敵の侵入を防ぐ形になっている。
石垣は、積み方や石の加工法によって、野面積み(初期の積みかた:裏門左側)・
打ち込みハギ・切り込みハギ(中期以後の積みかた:裏門右側)に分類される。
岩村城跡本丸裏門は三種類の積み方が一度に見える大変珍しい場所として特徴をもつ。

   
本丸からの展望   本丸へ続く道

   
 六段壁脇の東曲輪の虎口から
長局埋門跡の石垣を望む。
六段の石垣(正面) 

急峻な地形に石積をする為に、工夫された石垣。六段階の石垣の一階づつに
犬走りを設けた工法で積まれ、修理や防御が想定されている。

   
六段壁と東曲輪虎口  八幡神社拝殿内の龍 

八幡曲輪の最奥部には八幡神社が造営されていた。中世の城主遠山氏の氏神で
岩村城創築者加藤景廉(かげかど)を配神した八幡神社(明治に遷宮)があった
ことから八幡曲輪と呼ばれる。西方と北方の物見台として二層の遠見櫓が建っていた。

   
下村歌子像   下村歌子勉学所

下村歌子は、幼少の頃から漢学と和歌を学び才女の名が高かった。明治4年に18歳で上京し、
翌5年に宮内省に出仕し、同年皇后陛下よりその才能から「歌子」の名を授かる。
その後、歌子は女子教育の道に進み、実践女子学園・女子工芸学校を創設し、
校長となり、明治・大正を代表する女子教育者となった。

   
三好学銅像  上町常夜灯 
上町常夜灯 
寛政7年(1795)、上町・中町の有志により、ここから約100m南東の上町木戸付近に建立したもので、銘には『明和二乙酉秋創立寛政七乙卯秋再建』とある。戦前に国道257号沿いに移されていたが、昭和62年(1987)、岩村城創築800年を機にここに移された。城下町は江戸時代に度々大火に見舞われたことから、火伏せ(神仏の力により火災を防ぐこと)を祈願して建立されたと伝えられる。正面に大神宮(伊勢神宮)を配して天下泰平を、左側に秋葉大権現を配して火伏せを、右側に金比羅大権現を配して招福繁栄を願ったものである。〜現地案内板より  


   
城下町   岩村醸造

岩村酒蔵の創業は天明7年(1787年)と伝えられており、当時は岩村藩御用達の
運送業を本業とし、酒造業は副業だった。明治になり岩村藩が消滅したことで
酒造りが本業となり、その後大正10年に株式会社を設立とのこと。同時に味噌、
しょうゆ、みりん、焼酎なども造るようになったが、戦後からは日本酒の専業メーカーとなる。

   
 主力銘柄  

“女城主”とは、戦国動乱の時代に岩村城の攻防の中心人物であった
遠山氏最後の城主景任(かげとう)夫人のこと。織田信長の叔母にあたる。
これにちなんで、岩村醸造は、女城主というお酒を造っている。

   
   

   
   

   
トロッコのレール   

店頭より酒蔵まで約100m続くトロッコの線路に沿って歩きながら
見学できる。トロッコは、現在でこそ店頭の展示用となっているが、
20年ほど前までは現役で酒や米の運搬に使われていたとのこと。

   
 岩村醸造のお酒  木村邸

   
木村邸資料館  江戸時代の商人の家 

木村邸は江戸時代中期から末期に栄えた問屋で、藩の財政困窮のたびに
御用金を調達してその危機を救った。それゆえ、藩主より特別な存在として
認められ、商人にして苗字・帯刀が許された士分待遇の家柄。
藩主自身が幾度となくこの木村邸を訪れたといわれている。
藩主出入りの玄関・表通りに面した武者窓・上段の間・欄間・茶室は、江戸時代の
町家としての様式を至る所に留めており、城下町の歴史を偲ばせてくれる。

   
木村邸奥の隠居所  万里の長城の石など 

木村邸奥には、老齢になって世界を旅したと言われる女性の隠居所もある。

   
寿庵  蔵の内部  

寿庵は、生前、お茶室として使用。今は秋祭りの祭具や衣装が展示されている。

   
武者窓   殿様通用門

出窓のような武者窓は、藩主が訪問した際、付き人が外の様子を伺い、警護していた。
藩主も度々訪れるため、藩主専用の出入り口が有る

   
佐藤一斎の書額「藍原舎」   

儒学者の佐藤一斎は木村家と交友が深く、茶室は織物と地名にちなんで「藍原舎」と命名された

   
  「一團和氣四季皆春」 「一團和氣四季皆春」の説明 

 「一團和氣四季皆春」(いちだんのわきしきみなはる)の意味
あたりを包む穏やかな気持ちがあれば、春夏秋冬すべてが春だ。
春はもちろんのこと、暑い夏も厳しい寒さの冬も春の氣が漂う。
人もまた同じである。 佐藤一斎  85歳の書
西郷隆盛は佐藤一斎の「言志四録」のうち101条を抜粋し「南洲手抄言志録」としてまとめている。

   
 老梅書院 老梅書院 

煎茶道の成立に大きな役割を果たした八橋売茶翁、6代目弥五八と交流があり、
木村家を訪れたときに書院から眺めた老梅にちなんで「老梅書院」と命名した。

   
郵便ポスト  ゲストハウスやなぎ屋 

城に向かうメインストリートにあたる本通りを南北に横切る柳町地区。
ここは江戸時代には足軽長屋が立ち並び、10軒棟続きの町家など貴重な建物が残る地域。
この本通りから一本入った柳町に、大正時代に建てられた元染織工場の町屋を改修した
ゲストハウスやなぎ屋に宿泊する。岩村町のまちづくり会社、株式会社え〜ないわむらが
2016年4月30日にオープン。屋号は建物がある「柳町」が由来。
28年ほど前から空き家になって荒廃が進み、5年前に取り壊しの話が出たことから、
景観保全と新たな観光客層を呼び込む施設にするために同社が取得し、
国、県、市の補助金を利用して改修。当時から使用していた格子やガラス戸が残っており、
時代を感じさせる建物に再生。2階建て約260平方メートルで、2種類のドミトリー
(相部屋と女性専用)と三つの個室、計25人ほどが宿泊できる。
各部屋は襖で仕切られており、隣の部屋の声もよく聞こえる建物である。

   
居酒屋 殿  女城主 吟醸純米酒 

やなぎ屋で紹介された居酒屋さんに飲みに行くと、この日にやなぎ屋で泊まる方が
飲んでいて、一緒に飲むことになる。城の話等をした。
やなぎ屋の1階は宿泊者が集い、交流できる共有スペースとなっている。
やなぎ屋に戻ってからも、談話室で、「殿」で知り合った方やロッククライミングを
しているグループとかと一緒に飲んで、語る。
低価格で宿泊できるドミトリー(相部屋)を設けていたが、私は2階の個室に泊まる。
しかし、隣の部屋とは障子一枚だけで区切られていたので、隣の方のいびきまで
聞こえる。建物自体も古い家を改修し、吹き抜けのためか、一階とかにいる人の
声もよく聞こえる。遅い時間に訪れた家族連れの方も騒いでいて、なかなか寝付けず。

   
   

次の日の朝早く目が覚めたので、コンビニで朝食を買い、
食べて、出る準備をしてゲストハウスを後にする。
まだ朝の静けさが残る岩村の街中を歩いて、岩村駅まで向かった。
城下町商店街では「女城主」にちなんで暖簾にお店の女将さんの
名前が入っている。店や家が閉まっていたので、家々の軒下に
掲げられた佐藤一斎の碑文を読みながら歩いた。

   
   

   
 ふくろう市場 ふくろう商店街 

令和元年5月1日やなぎ屋の姉妹店がふくろう町にふくろう市場として
オープン。 岩村のお土産や農産物を販売しているらしい。

   
  得意の時候は、最も当に退歩の工夫を著くべし 

各家々の玄関先には、佐藤一斎の言志四録の言葉が彫り込まれている木札がある。
このように、一斎が残した名言200枚もの木板が家々の軒下に掲げられ、
また各所に建てられた碑文など、至るところで一斎の言葉に触れることができる。
「得意の時候は、最も当に退歩の工夫を著くべし」
順調の際は、一歩を退くくらいの謙虚さが必要である。

   
旧岩村町のマンホール  岩村の三偉人 

旧岩村町のマンホールは、岩村城と旧岩村町の木・ヒメコマツ、町の花・ヤマツツジ。
そして下部には「女城主の里」の文字。
三偉人の一人、三好学は景観と云う言葉を最初に使用した人物としても知られている。
幼少の頃から恵那地域の恵まれた自然の中で育ち、植物学の研究を通して誰よりも
自然のすばらしさを感得していた。時は明治の産業革命、歴史的に貴重なものや
古くからの名勝、自然景観、名木や巨樹などが破壊されていき、多くの貴重な
自然が人の手により絶滅の危機に追いやられることに激しい怒りと悲しみを感じた
博士は、学術上価値のあるものは法律で保護するべきであると世に先駆けて訴えた。
その努力により大正8年、「史跡及び天然記念物保存法」が公布施行され、
博士は、亡くなる直前まで天然記念物の保護に力を注がれた。

女城主の物語
天正元年、武田信玄に仕えた秋山信友は、城主遠山景任を亡くし未亡人となっていた
修理夫人(女城主)が織田信長の五男御坊丸を養子として守っていた岩村城を攻撃。
なかなか陥落しそうもないため、秋山は計を巡らし、密使を城中に送った。 「結婚して無事に
城を明渡し、御坊丸を養子として家督を譲ることとしてはどうか」などとひそかに夫人を説得した。
夫人も到底最後まで城を守ることができないと悟り、この提案を承諾。家臣や領民を守ることの
引き換えに政略結婚の道を選ぶこととした。 しかし、信友は信長の叔母と結婚したことを
信玄に嫌われるのを悟り、御坊丸を甲府に人質として送ってしまった。御坊丸は七歳の時だった。
これを聞いた信長は大いに怒ったが、その頃は武田の勢が強く、かつ近畿攻略に
追われていたので、そのまま放任せざるを得なかった。しかし、信長は、岩村城を信友に奪われたのを
無念とし、その周辺の小城に加勢を送り、ひそかに岩村城の奪還の期をうかがうこととした。
天正3年3月、長篠の戦に武田勝頼の軍が敗戦したことにより、武田と織田の勢力の均衡が逆転。
信長はこの機を逸せず、同年6月、岩村城を攻略すべく嫡子信忠を大将とする軍勢を岩村城攻略に
送り込んだ。信忠の大軍は数日間激しく攻め立てたが、岩村城兵も命を惜しまず防戦したため、
容易に攻略はならず、信忠は戦法を変更し持久戦をとることとした。6月から10月まで数ヶ月の
時が経ったころ、さすがに城中も次第に糧が乏しくなり、兵卒も疲れをみせはじめ、武田の応援も無くなり、
ついに岩村城は陥落した。 信長は、秋山信友をはじめ修理夫人(御坊丸を人質としたことを
憎まれていた)らを岩村城外の大将陣において、逆磔(さかさはりつけ)にして殺害。この時夫人は、
声をあげて泣き悲しみ、「我れ女の弱さの為にかくなりしも、現在の叔母をかかる非道の処置をなすは
かならずや因果の報いを受けん」と絶叫しつつ果てたという。 信長が本能寺で殺される、七年前の出来事だった
(いわむらアーカイブより)

御坊丸は、信長の五男で景任の養子。8歳にて家督を相続するも、事実上は
景任未亡人が城主として采配を振るった。秋山入城後は甲府へ人質として送られる。
天正9年人質開放の後織田勝長と称し、本能寺の変に父とともに戦死する