景信山から陣馬山

2004年12月28日

景信山から陣馬山に登り、下りは明王峠まで出て、相模湖の駅に出ました。

2004年の登り納めです。本当に今年はよく山に登った記念すべき年となりました。

陣場山頂
小仏バス停    12:30
景信山登山口  12:45
影信山山頂    13:20〜13:30
明王峠       14:20
陣場山頂     14:50
明王峠      15:30
相模湖駅     16:45

高尾駅から小仏までバスで20分ぐらい乗り、影信山への登山口を登り始めました。

影信山への登山口
景信山の山小屋

明王峠・石投げ地蔵塚嬢ヶ塚
案内板は以下の記述である。

景信山と明王峠の山稜を結ぶ間に「堂所山」という小峰がある。 その昔武田信玄が北条と合戦の時、鐘によって敵の情報を知らせ るための鐘つき堂のあった跡でその名前が付けられた。 
また明王峠は武田不動尊を祀り武運を祈願した所と伝えられる。
この峠の山頂に登り詰める一歩手前の道筋に、小石を積み重ねた 小塚があるのが目につく。伝説に塚の由緒を記すが、時は天正年間、甲斐の武田一族の姫君が常陸の国佐竹家に 嫁したが、不幸にして離縁となり幼女を残して生国の甲斐へと戻された。 その後幾とせ、残された幼女は美しい姫となった。 ある日、乳母より実母のことを聞かされ、次第にまだ知らぬ 母に思慕の念がつのるようになった。 やがて秋も深まろうとする頃、母と対面する好機が訪れ 乳母と共に母の消息を尋ねたいと父に懇願し、許を得て従士三人乳母等五人で甲州に旅立つことになった。 何分にも当時は戦国乱世の時、旅は決して楽なものではなく、敵方の難を逃れるため間道や峰道を通らねばならなかった、ある時は木の実を食し、沢の水で空腹を満たすほど殆ど不眠不休の旅であった。

相模湖町・相模湖観光協会

案内板は以上ですが、その続きは以下の通りです。

「武田一族の姫君が故郷を離れて幾月、かよわい足で野を越え山を越 えてようやく辿りついた所がこの明王峠である。甲斐の山々が眼下に見下ろせる急に展望の開けたところにさしか かるや、食あたりか疲労のためか姫は急に腹痛におそわれ草むら に伏してしまったのである。 突然の病に驚いた近従者は只、懸命な介抱につとめたがなにしろ人里離れた山中のこと、医者など到底呼ぶ間もなく 幼くして急死したのである。後に、武田・佐竹一族がこの地に参り小さな地蔵尊を建て懇ろに 供養したのが嬢ヶ塚であり、又この峠を往来する旅人が線香の替りに供えたのが石上げ地蔵又は石投げ地蔵と呼ぶ。」

一方、「じょうが塚」の話と「石投げ地蔵」は同じ場所で ありながらまったく異なっています。

「じょうが塚と長者屋敷」という昔話に以下のような記述があります。

「むかし陣馬、明王峠付近に美しいお姫様が住んでいたそうです。 お姫様は馬が好きで毎日、明王、景信を乗り回していました。ある日のこと馬に鞭打って走ってくるところを山伏の手にかかって射られてしまい憐れな最後をとげてしまいました。

だれいうとなくお姫様が倒れたその場所を「じょうが塚」といい、今でもこぶしくらいの小石が沢山積まれています。

またその近くには「矢の音」や「長者屋敷」という地名があり、長者屋敷はお姫様の屋敷跡ではないかといい伝えられています。」

大平小屋
樹木の間から夕日が見える

相模湖
夕方の相模湖

与謝神社