掛川城 

2018年1月9日

同窓会が愛知で開かれるということで、行く途中で、掛川に寄り、掛川城周辺を歩いた。

   
掛川駅   二宮金次郎の像

駅前には二宮金次郎の像があった。

   
太鼓櫓jと天守  四足門

四足門は調査では、門の跡は見つからなかったが、正保城絵図を元に復元された。
門の内側には、入城者を調べる番所があり、本丸を通じる重要な門である。

   
  十露盤掘 

室町時代、駿河の守護大名今川氏が遠江進出を狙い、家臣の朝比奈氏に命じて築城させたのが
掛川城のはじまり。今川義元が織田信長に討たれ、朝比奈氏は徳川勢に包囲され半年以上もちこたえたが開城。
その後、徳川家康は掛川城を武田氏との抗争の拠点としたが、武田氏が滅び、徳川氏も関東に移されると、
1590年(天正18)豊臣家臣の家臣山内一豊が城主として10年間在城。一豊は大規模な城郭修築を行い、
天守閣、大手門を建設するとともに、城下町の整備や大井川の治水工事などに力を注いだ。
掛川は、一豊の人生にとって大きな意味をもつ土地であり、高知城は掛川城を模して作られたとも伝えられる。
現在の掛川城は、平成6年(1994年)4月に、日本初の「本格木造天守閣」として復元されたもの。
十露盤堀は、天然の岩肌まで掘った堀で、雨水が貯まる仕組みになっていたようである。

   
 十露盤堀(そろばんぼり)  

三日月掘りは、本丸門の前面に配置された三日月状の堀。深さは8メートル。
調査では、堀の南側から石垣が見つかり、その下からは柱穴が並んで見つかる。
 内掘にはこの三日月掘の他、十露盤(そろばん)堀・松尾池などがある。

   
 腰石垣と玉石側溝 霧吹井戸 

西から徳川家康、東から武田信玄に攻められた駿河の今川氏真は、重臣朝比奈泰朝の掛川城へ逃げ込んだ。
この城を落とそうと家康が攻撃を仕掛けた際、井戸から立ちこめた霧が城をすっぽりと覆い隠し、
徳川軍は攻撃できなくなったという。以来、掛川城は「雲霧城」とも呼ばれるようになる。

   
 鯱の複製が展示  

   
  掛川市役所もみえる 

   
   狭間

   
 石落とし  石落とし

   
  山内一豊像 

   
二ノ丸御殿   

   
   

   
  掛川城御殿 

掛川城御殿は、儀式・公式対面などの藩の公的式典の場、藩政の中心となる諸役所(しょやくしょ)と、
城主の公邸が連結した建物。書院造と呼ばれる建築様式で、畳を敷きつめた多くの室(しつ)が連なり、
各室は襖(ふすま)によって仕切られている。文久元年(1861)に再建されたものだが、
現存する城郭御殿としては、京都二条城など全国でも4ヶ所しかない貴重な建築物である。

   
三の間 打掛   次の間

   
   

   
   

   
   

   
竹の丸離れの概観   

竹の丸は、もともと掛川藩の武家屋敷だったとの事。
竹の丸という曲輪は、山内一豊によって築造され、防衛上重要な場所であったと考えられる。
天正18年(1590年)、豊臣秀吉によって掛川城主に任命された山内一豊は、それまでの掛川城に
郭(くるわ)を付け加え、城を拡張した。この時に竹の丸も造成されたと考えられる。。
 竹の丸は、天守閣や本丸など城の中心部に通じる道筋にあたり、防衛上重要な
場所であったことから、家老など重臣の屋敷地に割り当てられていた。
現在の建物は、江戸時代より続く葛布問屋「松屋」を営んでいた松本家が本宅として
建築した建物。主屋は明治36年に建造され、桁行10間、梁間7間半の平屋建寄棟造。
離れは大正末期から昭和初期にかけて、平屋建から二階建に増築されている。
 昭和11年、邸宅は当時の掛川町に寄贈され、現在も掛川市で管理している。

   
   

   
離れ2階貴賓室   

   
   

   
 大日本報徳社  

   
   

   
大手門  礎石根固め石が展示 

大手門の大きさは間口7間(約12.7m)、奥行3間(約5.4m)の2階建てとなっている。

掛川城大手門礎石根固め石
掛川城大手門は、二層式の櫓門(楼門)でした。
大きくて重量のある門ですから、傾いたりしないよう基礎工事に工夫が凝らされていました。
これが、平成5年(1993)の発掘調査で発見された、門の基礎部分「礎石根固め石」
12個の内の一つです。直径2m深さ1m50cmくらいの大きな穴に、40cm前後の
河原石を円形に4~5段積み重ね、その上に門柱の礎石が置かれていました。
この根固め石は、新しく作られた道路に現地保存できないので、そのままの状態で取り上げました

   
大手門番所  三光稲荷

大手門番所の説明
大手門番所は、城の正門である大手門の内側に建てられ、城内に出入する者の監視や警備をする役人の詰所です。
嘉永七年(一八五四)の大地震で倒壊後、安政六年(一八五九)に再建されたのが現在の建物です。
 明治初年、掛川藩の廃藩に際し、元静岡藩士谷庄右衛門が居宅用として譲り受け、
別の場所に移築しましたが、昭和五十三年(一九七八)に谷家より市へ寄贈されました。
大手門に付属した番所が現存するのは全国的にも珍しく、昭和五十五年(一九八〇)、市の文化財に指定されました。
発掘調査により掛川城大手門と番所の位置が正保年間頃(一六四四~一六四七)に描かれた正保城絵図の
とおりであることが明らかになったので、平成七年(一九九五)周辺の区画整理により、本来の位置から
約五十メートル北に大手門を復元することにともない、それに合わせて番所を配置し、現在地に移築・復元しました。

大手門番所の裏には三光稲荷が祀られている。