金山城 

2019年8月10日

   
 太田市立史跡金山城跡ガイダンス施設  太田市の街並み

金山城は、戦国時代に造られた城で、金山全体の自然地形を利用して造られた
「山城」という種類の城。まだ天守閣がつくられるより古い時代の城であり、
堀切や土塁・石垣など土木工事(普請)を中心とした遺構がよく残されている。

   
 金山城跡の碑  金山城の地図

金山城の特徴としては、標高239mの金山山頂の実城(みじょう)を中心に、四方に延びる
尾根上を造成、曲輪とし、これを堀切・土塁などで固く守った戦国時代の山城である。
文明元年(1469)に新田氏の一族、岩松家純(いわまついえずみ)によって築城された。
由良氏が城主になった頃には、越後の上杉氏や甲斐の武田氏など名だたる武将たちに
10数回攻められたが、落城することが一度もなかった堅固な城だったという。
しかし、北条氏が城主の時、豊臣秀吉が北条氏を攻めた「小田原攻め」がおこり、
天正18年(1590年)、太田金山城は開城。役目を終え、廃城となった。

   
 西櫓台西塹壕 西矢倉台下の西堀切。 
西矢倉台下の堀切の堀底はV字型の薬研堀ではなく堀底が平らな箱堀であった。
深さは西側が3.4m、東側は7.4mもある。
「堀切」とは、尾根を切ることで攻め手の兵が攻めにくいようにした工夫。
   
 柱穴  物見台下虎口

西矢倉台西堀切は、西城から実城(みじょう)(本丸)までの間にある4つの堀切のうち、
一番西寄りにある堀切。この堀切は他と異なり、堀底に石を敷いて通路として利用しており、
通路の先は桟道(急斜面に沿って掛けられる通路)へと続いている。
また、通路の北側には柱穴(ちゅうけつ)(柱を支えるために掘られた穴)があり、
敵兵の北側からの侵入を防ぐための柵があったと考えられる。

   
 馬場下通路  

   
大手口馬場址  物見台 

   
 物見台からの展望  

   
掘っ立て柱の跡に柱   月の池。直径7m、深さは2m

   
   実城の大手虎口

金山城は、石垣や石敷きが多用されていることで、従来、戦国時代の関東の山城に
本格的な石垣はないとされた城郭史の定説が金山城跡の発掘調査で覆された。
実城の大手虎口。発掘調査を元に、1995年から石垣・石畳の通路を復元した。道に排水施設を設けている。

   
   

   
日ノ池は直径17m   金山城地形模型

   
 日本百名城の碑  新田神社

新田神社は、金山城の本丸跡に鎮座する神社で新田義貞を祀っている。

   
御嶽神社  本丸址の石碑 

   
 本丸裏の残存石垣  井戸

残存石垣から本丸を取り巻く腰曲輪を時計回りに進んで、元の階段下(御台所曲輪)に戻る。
金山城を巡った後、群馬県の隣の県の栃木県ではあるが、足利氏館が近いことがわかり、
あまり時間がなかったが、向かうことにした。