川越 

2018年2月11日


   
川越駅  川越駅前 

川越の街周辺をじっくり歩いたことがないと思い、街歩きをしてきた。矢野口駅で南武線に乗り、
府中本町から武蔵野線で北朝霞まで行き、東急東上線に乗り換えて、朝霞台から川越まで行く。
川越駅着いたら、観光案内所で、川越の散策マップをいただく。そのマップを頼りに、
喜多院、本丸御殿方面に向かって歩き出す。

   
光西寺   人それぞれの道

途中、光西寺による。川越藩主「松平周防守(すおうのかみ)」の菩提寺である。
道路際に「人それぞれの道」と題した看板が立っていた。

   
 中院 島崎藤村先生記念碑 

中院は、島崎藤村ゆかりの寺院として有名である。墓地には島崎藤村の
義母・加藤みきの墓があり、境内には藤村がみきに贈った茶室「不染亭」が移築されている。

   
仙波東照宮   

仙波東照宮は、喜多院の南側に位置し、喜多院第27世住職天海が徳川家康を祀った神社。
家康公の遺骸が日光へ運ばれる途中の4日間、奉納するために建立されたそうだ。
現在の建物は寛永17(1640)年に再建されたもの。

   
 仙波東照宮 天海僧正像 

天海大僧正( てんかいだいそうじょう) 1536~1643(天文5年~寛永20年)
喜多院第27世住職。慈眼大師。会津に生まれ、比叡山・園城寺などで修行した。
関ヶ原の戦い後、徳川家康の帰依を受け、幕府の宗教行政に参画した。
徳川家康公の絶大な信頼を得、顧問的な存在として知られている。以後、秀忠公、家光公に仕える。

   
 喜多院 多宝塔 

喜多院は、慈覚大師円仁が830年に創建したと伝えられる。喜多院住職の天海僧正は、
徳川家康の側近として活躍。徳川家との縁が深く、寛永15(1638)年の火災後、
惨状を知った家光は、江戸城の別殿を喜多院に寄進。再建時には、江戸城内の
家光誕生の間や春日局化粧の間が移築された。このとき新河岸川の海運が用いられた。

   
   

   
   

   
   

   
 慈恵堂  五百羅漢入口

   
   

五百羅漢は、笑っているもの、泣いているもの、怒っているもの、ひそひそ話をしているものなど
さまざまな表情を見せる羅漢が、阿弥陀如来や地蔵菩薩も含めて合計538体鎮座している。その様は圧巻である。

   
   

羅漢とは阿羅漢(あらかん)の略称で、仏教の苦しい修行の末に悟りを開いた聖者のこと。
しかし、喜多院の五百羅漢はどれも喜怒哀楽を示した人間味あふれる像ばかりである。

   
  落ち込んだ様子の羅漢 

   
「まいったな!」  内緒話をしている羅漢

   
   

   
カレーの店 「花かげ」 すじカレー 

喜多院を出たら、すぐのところにカレー屋さんがあり、「すじカレー」を注文し食べる。美味しかった。

   
  川越日枝神社 

赤坂の日枝神社は、文明10(1478)年に太田道灌が江戸城を築くにあたり、
この川越日枝神社を分祀し、その後現在の地・赤坂に移されたもの。
明治維新の神仏分離令からは東照宮、日枝神社は別管理となっている。

   
仙波山日枝神社古墳   

仙波山日枝神社古墳は、6世紀中頃築造の前方後円墳。規模は不明。
勾玉・切子玉・ガラス玉・土師器・埴輪などが出土している。

   
川越歴史博物館   十手

川越歴史博物館は、川越城築城530年を機に開館した歴史博物館。川越城や川越藩にゆかりのある、
貴重な歴史的資料が多数展示されている。甲冑や武具・川越城に仕えた忍者の道具から、
埴輪や土器まで幅広く展示。古代から近代に連なる川越の歴史を学ぶことができる。
入館料を払って、入るときに、係の方から「展示してあるのは全部本物、写真も撮り放題」といわれる。
見て回っていたら、ちょうど説明をされている方がいて、一緒に話を聞くことができた。
甲冑を作るためには、家を買うぐらいのお金がかかり、当時は非常に貴重であった。

   
 埴輪 木造寄せ木羅漢像 

   
   

武具は、刀、弓矢、薙刀、鎖鎌に火縄銃などなど。平安時代の
武蔵国武士の物から、川越藩松平家所用の品々まで見ることができる。

   
   

忍者の武器、手裏剣、撒きびし、くない、忍小鎌などが展示されていた。

   
   後藤又兵衛(中)や織田信長の兜(右)

   
 案内の方が説明  

「三日月」と「兎」をモチーフにした兜。当時、月は信仰の対象になっていて、その月には兎が住んでいると信じられていた。

   
 楯  馬の鎧

楯は、川越城に置かれ、争乱の時代を経た後に 川越藩祖酒井氏が紋章を記したとされている。
歯車が取り付けられおり実戦用に作られている
戦国時代は馬にも鎧をつけていた。見た目には随分重く感じられるが、革を乾燥してうるしで
仕上げてあるので非常に軽く又刀に対しても丈夫に出来て居るとのこと。
戦国時代に変わり兜が自分を目立つ様に色々流行したのと同じで馬にも相手をおどかす
意味で面をつけたようである。此の大きさが戦国時代の馬の実物大である。

   
  右:啄木威朱漆二枚胴具足
(たくぼくおどし しゅうるしぬり にまいどうぐそく) 

   
   六十二間筋兜鉢

六十二間筋兜鉢は、62枚の鉄板を剥ぎ合わせて作っている。

   
八間筋兜鉢(はっけんすじかぶとばち)  佐久間蔵人忠頼(正頼)の兜

八間筋兜鉢室町時代の作と思われる兜鉢は、刀や槍の叩きキズと側面には弾痕が残り
鉢全体の漆は欠落している。おそらく後の時代へも着用され 戦闘を重ねてきたものと思われる
大阪冬の陣で木村重成配下の佐久間蔵人忠頼(正頼)が被っていた兜です。
佐久間蔵人を打ち取った井伊直孝家臣、正木舎人重次の御子孫から譲り受けたもの

   
 成田山別院 本丸御殿 

本丸御殿は嘉永元(1848)年に時の藩主、松平斉典が造営したものの一部。
現存しているのは玄関部分と、移築復元された家老詰所のみである。
川越の地名の由来といわれるのは、鎌倉時代の武士・河越氏。娘が源義経の正室になるなど
幕府の御家人として力を持つ。その後この地を治めた上杉氏の家臣であった太田道真・道灌父子が
川越城を築き、川越城下町が形成されてきた。
関東の譜代大名の居城の例に倣い、天守閣をもたなかった川越城において貴重な遺構。

   
廊下   

   
 家老詰所  川越城


以前、テレビ「ブラタモリ」でも川越を取り上げていた。300年の「舟運」(しゅううん)の歴史がある。
かつて川越と江戸・浅草を繋いでいたのは、川を使った「水運」。川を通じて物資の交流が盛んだった。
旭橋の付近に、江戸~大正期には船問屋が軒を連ね、ピーク時で1日約100艘(そう)が江戸と行き来していたそうだ。
川越からは俵物=米・油粕・綿実など、江戸からは砂糖・酒・酢・麴など、熱海からは温泉水が運ばれていた記録もある。

   
 川越市立博物館前  公道に走る車

市立博物館は、川越城二の丸跡にある。城下町川越全体のジオラマや、蔵造りの町並みを再現した模型、
蔵造りの建築工程を再現した実物模型などもある。

   
 江戸時代末期の川越 天海大僧正像 

ガイドの説明をお願いすると、快く引き受けてくれた。まず、地図ジオラマで、近世の街の構造を詳しく説明をしてくれた。
108歳まで生きた天海大僧正が残した「気は長く 勤めは堅く 色うすく 食細くして こころ広かれ」という言葉を紹介してくれた。

   
 ”蔵造り”の蔵の建て方 ”建前”の展示 

「蔵造りの三職」 が 「鳶」、「大工」、「左官」 だそうだ。

   
 「民俗(川越の職人とまつり) 蔵造りの左官工程を示す模型 

   
 瓦  

外に出ると、鬼瓦のレプリカがあった。結構大きい。説明していただいたガイドさんに横に立っていただいた。

   
   

   
   

   
中の門堀跡入口  中の門堀跡 

中の門堀跡は、川越城の旧城内に残る唯一の堀跡。江戸の北の守りとして川越城が
重要視されていたことから、川越藩主・松平信綱による城の大改修の際、造られたとされている。

   
 太田道灌像  札の辻

太田道灌像は、かつての城郭の大手門跡に相当する川越市役所の庁舎前に建つ。
道灌は、父・太田道真とともに扇谷上杉氏に仕え、川越城を含む江戸、岩槻の三城を築いたとされる。
築城の名手であるとともに文武両道にたけた優れた武将として名声が伝えられる。
札の辻は、蔵造りの街並みと川越市役所前の道がクロスする交差点である。
札の辻は、川越城下町の中心として、高札場(こうさつば)があった場所。高札場とは、幕府が決めた
法度(はっと)や掟書きなどを木の板(高札)に書き、人目を引くように高く掲げる場所のこと。
今は名前が残るだけで、昔の面影はない。

   
川越元町郵便局   ガス燈

明治26年、この街に大火が襲う。この火事により川越の中心街のほとんどが焼失。
そこで川越の商人たちは、耐久性を備えた建築として蔵造りに着目する。今も残る蔵造りの街並みは、
当時の商家の名残りであり、江戸の情緒を今に伝える川越観光の見どころとして欠かせないものになっている。

   
 大沢家住宅 大沢家住宅 

大沢家住宅は、最古の蔵造りで、呉服太物を商っていた近江屋半右衛門が寛政4(1792)年に
店舗として建造したもの。数度の大火でも類焼を免れ、現在も往時の姿をしのばせている。
国の重要文化財に指定されている。1階では民芸品の販売が行われている。

   
奥に神棚   笛木醤油川越店

川越の街はは、もともとは類焼を防ぐための耐火建築で、町家形式として発達した蔵造りである。
江戸時代、川越藩主松平信綱の町割りによって、通りに店が向かい合う形の家並みができあがったが、
度重なる大火のため幕府がかわらぶきを奨励し、火事に強い建物として江戸の町で土蔵造りが流行した
笛木醤油川越店は、金笛直売店、うんとん処春夏秋冬、松下紀久雄むかし絵美術館を併せ持つ平成に建てられた“蔵”

   
 新井武平商店に行列  右門

秩父に本店を置く新井武平商店ヤマブは、風味豊かな「秩父味噌・醤油」を作るお店。行列ができていた。

   
時の鐘  時の鐘 

時の鐘は、寛永年間(1624~44年)、川越城主酒井忠勝が城下に建てたのが最初で、
時間を知る手段のなかった当時に、庶民たちに時を告げる手段としておおいに親しまれる存在だった。
川越の豪商だった煙草屋・小山文造が明治26年の川越大火後に建てた建造物。
塔をくぐるとそこには薬師神社があり、健康祈願や合格祈願もすることができる。

   
 りそな銀行川越支店  鬼瓦

りそな銀行川越支店は、ルネサンス様式を基調とした西洋建築

   
黒しっくいの壁と分厚い観音開きの扉   

川越の蔵造りの特徴として「箱棟、大きな鬼瓦、重厚な観音開き扉」といわれている。
江戸の武家屋敷に多い江戸黒(えどぐろ)と呼ばれる黒い壁が特徴である。
明治26年に大火に遇(あ)い、その際、新河岸川を使い、江戸様式の資材を運び
再建したため、江戸と町並みが似ている。
蔵造りの2階の窓は、普段は開かれている。しかし、火災の場合はジャバラ式(折りたたみ式)の
密閉扉が固く閉じられ、半紙ひとつ通さない。これにより、所蔵物を守ることができるのである。

   
 連聲寺(れんけいじ) おびんずる像 

 連聲寺は、1549年に小田原北条氏によって建立された。
安産のご利益があり、「おびんずる様」に触ると病気が治るという言い伝えもある。
早速、頭と膝をなでた。

   
  川越駅