2019年11月3日〜4日
宿泊先のホテルで、荷物を置いて、金沢城公園と兼六園のライトアップを見に行った。
噴水 |
噴水は、噴水より高い位置にある霞ヶ池を水源とし、池の水面との高低差を
利用した自然の水圧で吹き上がっている。水の高さは通常約3.5mあり、
霞ヶ池の水位の変化によって変わる。江戸時代の技術レベルは高い。
唐崎松 |
兼六園で最も有名なスポットが霞ヶ池(かすみがいけ)
兼六園のシンボルになっている「徽軫灯篭」(ことじとうろう)付近は混雑していた。
唐崎松は、前田斉泰が琵琶湖の唐崎松から育てた兼六園内でも有名な樹木。
雪の重みによる枝折れを防ぐ為の雪つりは冬の風物詩。
池に映る雪吊り |
1676(延宝4)年に加賀藩5代藩主前田綱紀が金沢城に面した斜面に
「蓮池御亭」を建て、その周辺を作庭したのが兼六園の始まりと伝えられている。
以降、14代までの歴代藩主が約180年をかけて現在の姿に造成した
根上松 |
根上松は、高さ約15mの黒松。大小40数本もの根が地上2mにまでせり上がった
迫力の奇観を呈している。この松は、13代藩主・前田斉泰(なりやす) が土を
盛り上げて若松を植え、成長後に土を除いて根をあらわにしたものだと伝えられている。
日本武尊像(やまとたけるのみことぞう |
松の傷 |
由緒書きによれば、松の傷は1945年6月頃に当時の日本政府の指示で
軍用航空機の燃料にするために松脂を採取したあとである。
戦争中の1945年3月16日。当時の日本政府は「松根油等拡充増産計画」を閣議決定。
全国の松から年間40万キロリットルの松根油を生産し、それを燃料にして航空機を
飛ばそうという壮大な計画であった。 兼六園の松 200本もその対象になり、まず
同年6月に53本の木から松脂が採取された。1昼夜で1本の木から
1合半の松脂が取れたとのこと。 結局、全国17箇所ある製油所のうち
15箇所が爆撃を受け、生成された松根油の量は計画を大きく下回る 500キロリットル。
この松根油で航空機が飛んだ形跡もなかったようだ。 このときの
「松根油等拡充増産計画」は、今も兼六園の「松の傷」として残っている。
金城霊澤 | 金城霊澤 |
兼六園の横にある金澤神社のそばに「金城霊澤」という泉がある。その昔、
芋掘藤五郎という男がこの湧き水でイモを洗ったところ、たくさんの砂金が
出てきたという伝説が残っている。そこから「金洗いの沢」と呼ばれるようになり、
「金沢」という地名の由来となった場所と伝えられている。
鳳凰山 |
13代藩主斉泰は金城霊澤の傍らの小高い丘に洞窟を掘り、「金城霊澤碑」を納めた。
岩を積み上げて鳳凰の形にしたので、この丘を鳳凰山と呼ぶ。
洞窟の大きさは、間口約2m70cm、高さと奥行はそれぞれ約2m15cm。
碑は幅1m、高さ1m60cm、厚さ約30cmの伊豆石。
碑文の上部に隷書で書かれている「金城霊澤碑」の文字は斉泰の書だ。
天保15年(1844)に江戸でつくられ、金沢に運ばれたもので、碑が実際に立ったのは嘉永4年(1851)である。
碑文には芋掘藤五郎のこと、金沢の地名の由来などが刻まれている。