岐阜城

2018年5月5日

前日に京都の大文字山に登り、その日は愛知の実家に泊まり、岐阜まで足を延ばした。
岐阜駅からバス停12番、13番乗り場から金華山に行くことができる。下車は「岐阜公園・歴史博物館前」

   
 金華山 天下布武の印判のモニュメント 

岐阜城は、標高329mの金華山(きんかざん)山頂に位置する。岩山の上にそびえる城は、難攻不落の城と
しても知られ『美濃を制すものは天下を制す』とも言われる。戦国時代には斎藤道三の居城でもあった。
その後、永禄10年(1567年)に織田信長がこの城を攻略し、城主となる。信長は「井の口」と呼ばれていた
地名を「岐阜」に、「稲葉山城」を「岐阜城」に改めたといわれている。
信長が天下を夢見た、野望の城。信長の正室・帰蝶姫の父・斉藤道三の城としても有名。
信長は、天正4年(1576年)に岐阜城を息子信忠に譲るまでの間、「天下布武」の朱印を用いて
商業を活性化させた「楽市楽座」と武士と農民を身分的に切り離した「兵農分離」の施行。
市場がある城下町に人を住まわせ、まちを作り上げるという結果を生み出した。
金華山は、ツブラジイというブナ科の樹木が多く見られ、5月上旬に黄色い
花を咲かせ、全山が黄金色に見えたことから「金華山」の名が付いたとも言われている。

   
 登り始める  めい想の小径入口

山頂までは、ロープウエイに乗っていく人もいるが、長い列ができていて、待ち時間50分というアナウンスも
流れていた。歩いて登っても一時間ぐらいというので、時間的にはあまり変わらなくなる。
私は、瞑想の小道といわれる登り口から登り始め、途中で馬の背という急な岩場を登っていく。

   
格言が随所に配置されていた。  分岐点 

馬の背登山口は公園内から登山口に入り、途中までめい想の小径と同じコースを歩くのである。

   
 馬の背の急な岩場が多い。 長良川とその向こうに長良川球場 

金華山全体がチャートという硬い岩石で出来ている。長い間に長良川で浸食され、
硬いチャートだけがむき出しになっており、そのチャートの上に岐阜城がそびえている。
信長は谷間に二段の石垣を築き、山頂をまるで巨大な要塞にようにして権威を見せつけた。
これもまた、信長の平和的な行動のひとつだったと言われています。つまり、岐阜城は
戦のための城ではなく、権威を見せつけるための平和の城だったとも言われる。

   
 たくさんの人たちが登っている。  江戸時代前期の大型櫓時計

城の側にお城時計があり、大名時計・和時計とも言うらしい。

   
織田信長肖像画  

   
 濃姫  

斉藤道三の娘であり、織田信長の妻であった「濃姫(のうひめ)」

   
   

1567年に小牧山城から岐阜に拠点を移した織田信長により大幅改築された岐阜城は、
信長が手がけた小牧城に続いて、2つめの城と言われている。
軍事的構築物ではなく、“住んで・見て・楽しむ”をコンセプトとした政治要素の強いといわれる。
国盗り物語」で有名な斎藤道三(信長の義理の父)の居城でもあった。当時の城名は「稲葉城」である。

   
   岐阜市南部を一望

金華山からは、岐阜の街だけでなく名古屋まで一望できる。

   
 長良川  

天守閣からは、東には恵那山、木曽御岳山、北には乗鞍、日本アルプス、西には伊吹、養老、鈴鹿の
山系が連なり、南には濃尾平野が広がる様を見ることができるようだが、かすんでいてよくわからない。

   
 長良川上流方向  

   
  岐阜駅方向 

   
天下布武の印   下山口

下山は、めい想の小道を下る。

   
険しい岩場  下山途中からの眺望 

   
山内一豊と千代婚礼のモニュメント   千代と長良川

尾張出身の苦労人山内一豊は秀吉の家来として活躍し、信長の岐阜時代に、
千代と結婚したのを記念して碑が建てられたようである。
黒御影石に、「長良川と一豊を愛した伴侶の鑑 千代を讃える」と白い文字がクッキリ彫られている。
説明板には平成8年のNHK大河ドラマ「功名が辻」に因んで建てられたと記されている。
16世紀中ごろ、信長の下級家来として岐阜にやってきて、岐阜城下に居を構え、千代と結婚した
一豊が、やがて一国の城主に出世したことから、「一豊の妻」といえば「内助の功」の代名詞になっている。