小石川後楽園 

2016年9月


暑い日差しの中、昼間に少し時間が取れたので、小石川後楽園に行ってみた。飯田橋駅から歩く。

   
 飯田橋  正門

東京ドームに隣接する小石川後楽園は、江戸時代初期、寛永6年(1629年)に水戸徳川家の祖である頼房が、
江戸の中屋敷(後に上屋敷となる。)の庭として造ったもので、二代藩主の光圀の代に 完成した庭園である。
光圀は作庭に際し、明の儒学者である朱舜水の意見をとり入れ、中国の教え「(士はまさに)
天下の憂いに先だって憂い、天下の楽しみに後 れて楽しむ」から「後楽園」と名づけられた。
庭園は池を中心にした「回遊式築山泉水庭園」になっており、随所に中国の名所の名前をつけた景観を配し、
中国趣味豊かなものになっている。また、特徴として各地の景勝を模した湖・山・川・田園などの景観が表現されている。
この地は小石川台地の先端にあり、神田上水を引入れ築庭された。

   
庭園に入って、すぐの眺め  西行堂跡

藩祖頼房の時代に、御鞍打師「小野荘兵衛」作の西行法師の木像を安置したことから西行堂と名づけられた。
ここにある西行の歌碑は、9代斉昭の「駐歩泉」の碑にちなみ同夫人が建てたもの。この堂は戦災により焼失。

   
大泉水   延段

大泉水は、庭園の中心的景観。蓬莱島と徳大寺石を配し、琵琶湖を表現した
景色を造り出したもので、昔はこの池で舟遊びをしたといわれている。
延段(のべだん)は大小の自然石と切石を巧みに組み合わせた中国風の素朴な石畳。

   
白雲台跡   木曽山

   
   寝覚の滝

   
内庭  東門 

   
内庭 池に架かる橋  

   
   瘞鷂碑(えいようひ) 

7代治紀は将軍家から賜った鷹を大切にしていた。鷹は治紀が没した4年後に亡くなったため、8代斉脩がこれを哀しみ碑を建てたもの

   
九八屋  稲田 

九八屋は、江戸時代の風流な酒亭の様子を現した。この名の由来は「酒を飲むに
昼は九分夜は八分にすべし」と酒飲みならず万事控えるを良しとする、との教訓による。
戦災により焼失したが昭和34年(1959)に復元
園の北側地域は、梅林、稲田、花菖蒲、藤棚の田園風景となっている。
農民の苦労 を、水戸光圀が彼の嗣子・綱条の夫人に教えようと作った田圃で、
現在は毎年、文京区内の小学生が、5月に田植え、9月に稲刈りをしている。

   
 井戸 八卦堂跡

2代光圀7歳のとき、将軍家光に謁見したおり「文昌星」像を頂戴した。後に光圀は文学を好むようになり、
文昌星を思い起こし八卦堂を造りその像を安置したという。なおこの堂は大正12年(1923)の関東大震災で焼失

   
 円月橋 小鷹山 (しょうろざん)

円月橋は、明の儒学者朱舜水が設計したといわれる石橋。水面に映る
様子と合わせると満月のように見えるので、この名がつけられた。
小鷹山は、一面オカメザサでおおわれた、円い築山。その姿、形が中国の
景勝地・廬山に似ていることから江戸の儒学者・林羅山が名づけた。

   
 西湖の堤  屏風岩

西湖の堤は、中国の杭州の蘇堤を模している。蘇堤は南北に長く広い堤である。この西湖の堤はとても
短いが、南北に造られているところは同じだということである。

   
   得仁堂 (とくにんどう)

得仁堂は、光圀18歳の時、史記「伯夷列伝」を読み感銘を受け、伯夷(はくい、叔斉(しゅくさい)
木像を安置した堂。得仁堂の名前は孔子が伯夷・叔斉を評して「求仁得仁」と語ったことによるとのこと。

   
東京ドームも見える。 通天橋