小牧山城 

2024年8月11日

   
東横イン(名古屋桜通口)  名古屋飯 

愛知の実家に帰るついでに小牧山城に行った。
前日は名古屋の東横インで泊まり、近くの居酒屋で飲食。
名古屋ということで手羽先と親子丼を食べる。

   
小牧駅  観光案内所 

   
信長公チャレンジ街道スタート地点   

スタート地点(小牧駅) 平成25年度に、織田信長公による小牧山
築城450年となったことを記念して、信長公の誕生から小牧山に
城を築くまでの出来事やエピソードをイラストとともに紹介している。

   
   

   
  小牧山 

 史跡小牧山は、小牧市の中央部に位置する標高85.9mの独立した山である。
戦国時代に織田信長がここに城を築き、山の南麓に城下町を整備した
ことや、その後小牧・長久手の合戦で織田信雄、徳川家康連合軍が
ここを陣城として整備し、羽柴秀吉軍とこの地で対峙するなど歴史の舞台となり、
今も当時の遺構が良好な状態で維持されていることなどから、山全体が史跡に指定されている。

   
   

信長は小牧山の山頂を主郭とし石垣を用いた城を築く。山中に曲輪、
山麓には武家屋敷を配した。また、山の南側には直線的な大手道を設けた。
この大手道は中腹で折れて主郭へと至る。石垣を用いた城造りや大手道の特徴は、
近世城郭のルーツと考えられ、安土城の原型がここにあるといわれている。

   
   

小牧山城の築城から4年後、信長は美濃の斉藤氏を攻め滅ぼし
岐阜城へと居城を移した。小牧山城は廃城となる。時を経て
天正12年(1584)、小牧・長久手の合戦で、織田信雄と徳川家康の連合軍は
秀吉に対抗するため、小牧山城跡に大規模な改修を加えた。
豊臣秀吉徳川家康が戦ったこの「小牧・長久手の戦い」では、
家康がこの地に本陣を置いたとされている。
山麓の信長時代の武家屋敷跡に二重の土塁、堀や虎口を設けるなど
より堅固な姿となった。戦はこう着状態に陥る。秀吉が織田信雄を
説得し講和が成立、両軍が撤退し小牧山城は再び廃城となった。

   
   

江戸時代は尾張藩領となり小牧山は入山禁止となる。そのため、遺構が
良好に残されることとなる。平成20年(2008)、主郭部の発掘調査を開始。
令和6年(2024)4月、主郭部の史跡整備工事が完了し、石垣や虎口など、
実に城らしい造形を目で見て理解できるようになっている。
発掘整備は大手道を中心に2024年現在も続いている。

   
  大手道の石垣 

この城は「攻められることがまるで考えられていない」という専門家はいる。堀はなく、
山頂への大手道はただまっすぐに伸びている。今見ても簡単に攻め落とせそうである。
つまりこの城は権威を見せる城であって戦闘用ではないということ大手道の
石垣は自然の岩盤を削って角度をつけ、その上に石が積まれた状態を復元している。

   
   

   
  小牧山城は別名「麒麟の城」 

   
  金華山(左側の山) 

   
犬山城方面  犬山城、小口上方面 

   
展望台より北側 (本宮山など)  

   
 小牧市街 小牧駅方面 

   
   展望台より南側(名古屋方面)

   
   

   
   

   
 主郭部石垣 西側に再現された段積みの石垣 

手前に転がっている石は当時の石垣から崩れ落ちたもの。

   
 大手道  

帰りは小牧方面に歩いたつもりが、行きとは違う小牧山公園の出口を出てしまって、
大通りを歩いていて、遠回りの道になっていた。コンビニの店員に聞いた
方角に歩いたのだが、きちんと教えていただかなかった。説明不十分である。
途中のラーメン屋で、ラーメンを食べて、駅への道を聞いたらやはり遠回りの道だった。
その時思ったのだが、当てずっぽう出歩くのではなくて、スマホ等できちんと調べて
歩くべきだった。ラーメン屋からはスマホを見ながら歩いた。