2024年10月12日
日本シルクロード文化センター主催で小松由佳さんの講演会があり、
狛江の泉の森会館ホールに行った。
テーマは「私は歩き続けるヒマラヤから砂漠へ、難民の土地へ
そして まだ見ぬ人間の土地へ」である。
K2 登頂率が最も低い |
2006年、世界で最も困難な山、世界第二の高峰K2(8611m)に日本女性として
初登頂を果たす。奇跡の生還をし、写真家としてシリアなどに何度も出かけ、
シリア内戦に翻弄されながら、シリア人男性と結婚する。
秋田出身で、初めて登った山が大平山(1180m)祖父母の代まで米農家。
「春は山菜採り、秋にはキノコ狩り」という風土で育つ。秋田北高校で登山部に入り
ヒマラヤ登山で実績のある東海大に進学した。「人間の側で男だ女だと
分けるだけで、山は平等に男も女も扱う。人間が壁をつくる必要はない」
とある先輩の言葉に救われる。
小松さんと最年少で登頂の青木さん | ロシア隊も写る |
小松さんは人には二つのチャンスがあって、自分で作るチャンスと与えられたチャンスがあるという。
人から与えられるチャンスはその時を逃すともう二度と来ないという思いで思い切ってK2に挑戦。
登頂してベースキャンプに下りてきて、ロシア隊が訪ねてきて、情報を知りたがっていた。
しかし、そのロシア隊は一週間後、雪崩に襲われ、消息を絶った。
チームとして6人でキャンプ地まで登り、山頂に向かったのは二人である。
登頂したのは夕方5時である。本来なら3時までに登らなければならない。
何度も生と死の境をさまよい、山頂に登ってから標高8200メートルにある最終キャンプ地
「C3」に還るまで生死を分けるほど厳しかった。登頂したその日のうちにC3までたどり着けず、
共に登頂した後輩と斜面でビバークした。その経験によって山から帰還したときに、
人間が生きていることは、ただそれだけでかけがえのない特別なことだと気づいたとのことである。
運と不運は紙一重である。運がなければ、戻ってこれない。それだけ過酷な山である。
小松さん |
日焼け止めを一時間おきに塗ったが、焼けてしまい、日焼けが戻るまでに半年間はかかったとのこと。
最近、K2に登って、7000m地点で墜落した二人のクライマーの一人、平出さんが墜落したという
話もされていた。平出さんは東海大学山岳部の先輩である。とても悲しい出来事ではあるが、
あり得ることでもあり、いつ死に直面するかわからないリスクはある。本人も覚悟はあったと思う。
シリアの砂漠でラドワンと出会う。
現在のアレッポ |
シリアは2011年、内戦が勃発。政府側、反政府側、ISと3つの勢力が争っている。
夫のラドワンの兄はとらえられていて行方不明である。
ラドワンはレバノンに逃れ、小松さんと再会ができた。
ラドワンの家族もまたパルミラを拠点に100頭近いラクダを沙漠で放牧する半遊牧民だった。
現在のアレポ | アブドュルラティーフ一家。右上が夫 |
一家は70代の父親と60代の母親に16人の子どもである。ラドワンは16人目である。
主な仕事はラクダの放牧や日干しレンガ積み、朝夕の家畜の世話で、
年の近い兄たちと日々の大半を沙漠で過ごした。
2012年には六男のサーメルが運動への参加によって逮捕された。
母親から「お願いだからシリアを離れてほしい」と電話があった。
2011年8月、ラドワンはシリアを去った。秘密裏に沙漠から越境をしヨルダンに逃れた
義父 |
現在は八王子に住んでいて、子育て、家事に奮闘している。
国柄、夫の協力を得るのは難しいようである。
結婚生活は苦難の連続である。小松さんは親から勘当された。
日本はお金がなければ生きていけない。シリアは現金がなくても
生きていける。夫は重要なのは(家族や友人とのゆとりの時間である
「ラーハ」を実践するなど)シリア的な生き方や働き方を大切にしている。
2008年にラドワンと出会い2013年結婚。ラドワンも日本では
ひきこもって、2年間ぐらいノイローゼ状態。仕事を転々とした後、
今は中古自転車をヨルダンに輸出する仕事をしているとのこと。
小松由佳さん | 本「人間の土地へ」を購入 |
「人は何かを成し遂げたり、何かを残さなくとも、ただそこに生きていることがすでに特別で、尊いのだ」
現在、サバイバル状態だというが、日々を創造しながら受け入れてゆくしかないのだと。
そして人間はどこにあっても自らのルーツを求め続け、その思いが今を生きる力になる。