2019年7月21日
八王子駅 | 甲府駅 |
甲府城と武田氏館を観に行く。八王子駅から特急「甲斐路」に乗り、甲府駅まで行く。
甲府駅の観光案内所で、パンフレットをいただき、二つの城に行くコースを教えていただいた。
武田氏館に行くのは、駅から歩いて30分ぐらいだが、今日は暑いので、バスの方がいいですよと
親切に言っていただいた。
甲府城に向かう | 稲荷曲輪の石垣 |
稲荷曲輪東面の石垣。石を加工せずに積む野面積みですが、石垣の高さは17mもあり甲府城でもっとも高い石垣
稲荷櫓 | 城内の石垣と石垣技術 |
稲荷櫓は、城内の鬼門(北東)に位置することから艮櫓(うしとらやぐら)ともよばれ、
江戸時代には武具蔵(ぶぐくら)として使われていた建物
明治初年まで残っていたことが古写真でわかっている。
甲府の二つの城下町 | 甲府城復元 模型 |
鯱 |
鯱が展示してあったが、大坂城の鯱瓦を模して作ったようである。
稲荷櫓の鯱ではなかったのだ。
天守台 | 線刻画 |
線刻画 | 石垣 |
甲府城の線刻画というのは、石垣の石におまじないとして書かれた絵のこと。
稲荷櫓の横の石垣の前にその説明板があった。鳥や魚、記号などが描かれているとのこと。
天守台に昇る | 天守台から県庁や謝恩碑の眺め |
天守台に昇ると、ボランティアガイドさんがいて、謝恩碑の説明を聞いたり、
甲府の地形が扇状地になっていて、水害も多いといわれる。ただ盆地にもなっているので、
台風とかは比較的避けられるような話はしていた。
内松櫓門 | 野面積み |
謝恩碑 |
謝恩碑の高さは約30.3メートル。
この記念碑は明治40年の大水害など度重なる水害によって荒廃した山梨県内の
山林に対し、明治天皇より山梨県内の御料地の下賜が行われたことに対する
感謝と水害の教訓を後世に伝えるために1922年に建設された。謝恩塔ともいう
謝恩碑 | 石切り場跡 |
甲府城の石垣の石材はこのような岩山からも切り出した。
稲荷曲輪門 | 二重の石垣 |
稲荷曲輪門は、稲荷曲輪と鍛冶曲輪をつなぐ門である。二重の石垣は、
石垣の解体調査をすると、その背後からも石垣が現れ、積み直しをしていることがわかった。
内側の石垣も、外側の石垣も、同じ打込み接ぎになっている。
甲府城の歴史 −甲府市の観光情報よりー
甲府城は、古くは甲斐府中城、一条小山城、舞鶴城、赤甲城などとも呼ばれていました。
天正10年(1582)甲斐国は戦国大名・武田氏の滅亡後、まず織田信長の領国となり、本能寺の変の後は徳川家康の支配するところとなりました。しかし、豊臣秀吉が天下統一をなしとげると、秀吉の命令により甥の羽柴秀勝、腹心の部下である加藤光泰らによって築城が始められ、浅野長政・幸長父子によって完成をみました。また、慶長5年(1600)関ヶ原の戦い以降は再び徳川の城となり、幕末まで存続しました。
甲府城は江戸時代の初めは、将軍家一門が城主となる特別な城でしたが、宝永元年(1704)時の城主・徳川綱豊が第5代将軍・徳川綱吉の養嗣子となり、江戸城西の丸へ移ると、この後に祖先が甲斐出身で側用人の柳沢吉保が城主となり、大名の城として最も整備され、城下町とともに大きく発展しました。しかし、吉保の子・吉里が大和郡山城主として転封された後は、甲斐国は幕府の直轄地となり、甲府城は甲府勤番の支配下におかれました。その間、享保年間の大火により、城の本丸御殿や銅門を焼失するなど、次第にその壮麗な姿は失われていきました。
明治時代になると、甲府城も廃城となり、明治10年前後には城内の主要な建物はほとんどが取り壊されました。まず内城全体が勧業試験場として利用されはじめ、さらに翌年、鍛冶曲輪に葡萄酒醸造所が設置されるなど、城郭としての機能は失っていきました。また、現在の山梨県庁が旧楽屋曲輪内に設けられ、中央線敷設に伴い屋形曲輪、清水曲輪が解体されるなど、さらに城郭が縮小され、現在では内城の部分のみが城跡としての景観を保っています。
甲府城は明治に入り、徳川時代の面影を大幅に失うこととなり、残された城跡が明治37年(1904)に「舞鶴公園」として開放されました。
昭和5年(1930)には、甲府中学校の移転に伴い、旧追手役所跡にあった県庁舎や県会議事堂が楽屋曲輪跡に移り、同時にその西側、南側の堀は完全に埋められました。その後、武徳殿(昭和8年)、恩賜林記念館(昭和28年)、県民会館(昭和32年)、議員会館(昭和41年)などが公園内に設置されました。
昭和39年(1964)には都市公園「舞鶴城公園」として都市計画決定されました。最近では、舞鶴城公園整備事業が行われ、鍛冶曲輪門、稲荷曲輪門などの門や稲荷櫓が復元されました