倉敷
2014年10月20日
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倉敷駅前 |
倉敷駅前(アパホテル) |
倉敷に行った。30年ぐらい前に行って、倉敷の街並みを歩いた覚えがある。その時は、大原美術館には行っていない。
石井十次と児島虎次郎にゆかりのある大原孫三郎が建てた美術館に今回は訪ねてみたいと思い、美術館を中心に歩いた。
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「交由軒」(こうゆうけん)店頭 |
岡山名物ばらずし |
前日の夜は、倉敷駅近くの食堂に入った。「交由軒」という店である。寿司と和食の店になっていた。
ママカリやおでんがついているビールセットを頼んだ。ママカリは岡山を代表する小魚で、酢で締めていた。
岡山名物といわれているばらずしも食べた。「日曜日限定」となっていたので、この日は食べることが出来た。
次の日の朝食を駅前のホテルのバイキングで食べて、8時半すぎに美観地区に向かって歩き始めた。
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佐野屋本店 |
橋香堂 |
美観地区は倉敷駅から10分ぐらいで行ける。
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川べり |
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紅葉が色づき始めている。 |
有隣荘 |
有隣荘は、1928年に建てられた大原家別邸。緑色の瓦にオレンジ色の壁の建物
大原美術館に9時前には着いたので、9時の開館と同時に入った。平日ということもあって、空いていた。
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大原美術館 |
大原美術館 |
大原美術館は、事業家大原孫三郎が、前年亡くなった洋画家児島虎次郎を記念して1930年に開館した。
大原は虎次郎に託して収集した西洋美術、エジプト、中近東美術、中国美術などを展示するために開館。
大原は1880年、親の代から紡績業を営む、倉敷の名家に生まれる。石井十次との出会いが大原の人生を変えたという。
プロテスタント信者であった石井の影響で自らもプロテスタントに改宗した大原は、事業で得た富を社会へ還元することの
重要性に目覚めた。大原にとっては美術館の創設も社会貢献の一環という認識だったようだ。
本館は、大原美術館設立時の作品を中心に児島虎次郎が収集した作品が展示されている。
隣接して、分館、工芸・東洋館があり、倉敷アイビースクエア内に児島虎次郎記念館がある。
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ロダン『カレーの市民 ジャン・ダール』1890年 |
ロダン『洗礼者ヨハネ』 |
ギリシャ神殿風の本館の中には世界画壇の巨匠作品が多数展示されており、ツタにおおわれた石垣の門を入ると
ロダンの2体の彫刻「洗礼者ヨハネ」「カレーの市民」の像が迎えてくれる
「洗礼者ヨハネ」は、高さ2m。左の人差し指は足を、右の人差し指は口を差して、「私は歩き、語っている」と
洗礼者の説明をあえて説明的とも言える姿で表現している。
エルグレコ『受胎告知』は、1922年、3回目の渡欧中だった児島が、パリの画廊で売りに出ているものを偶然見出したもの。
児島はこんな機会は二度とないと思ったが、非常に高価で手持ちの金もなかったため、この時ばかりは
大原に写真を送り購入を相談した。現在では、あること自体が奇跡だといわれ、大原美術館の代名詞のようになっている。
他に、モネ、マチス、ルノアール、ゴーギャンなど世界の巨匠の名画が多数展示されている。
この日は平日ということもあって空いていて、これだけの作品がじっくり見られた。東京の美術館ではこうはいかない。
音声案内も借りたのだが、入館者はリピーターなのか、観光で聞く時間があまりないのかほとんど借りていなかった。
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工芸、東洋館 |
工芸館と東洋館は、江戸時代の米倉を改装した館はで構成されている。 工芸館には、陶芸や木版画、型染の作品などが展示され、
東洋館には、児島虎次郎氏が収集した中国古美術コレクションを中心に 先史時代〜唐代までの東アジアの古美術が展示されている。
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結婚船 |
中国銀行 |
新郎新婦が川下りをしていて、周りでシャッターを押す人たちがたくさんいた。
中国銀行倉敷本町出張所 は、 登録有形文化財で、第一合同銀行倉敷支店として1922年(大正11年)に竣工したルネサンス風建築
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備前焼の店 |
鶴形山隧道 |
鶴形山西部の観龍寺下を南北に鶴形山隧道と呼ばれるトンネルが通過している。トンネルの横に
階段があり、登っていくと、観龍寺に出た。
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戦争を物語る防火水槽 |
観龍寺参道 |
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鐘楼 |
観龍寺は、寛和元年(985年)尭勢津師により現在の倉敷市西岡に慈照院(西安寺)の塔頭として開創。
当時は北斗山宝積院と称していた。室町時代に鶴形山の麓、現在の駐車場の場所に移転し、
寛永元年(1624年)現在の地に再移転し、同年に宝寿山観龍寺と改称された。江戸時代中期の1740年代に2度にわたり
伽藍が焼失、本堂は寛延2年(1749年)に再建以降時代に整備し現在に至る。
慶応二年(1866)四月十日、第二奇兵隊は倉敷代官所を襲撃すると、倉敷市内の鶴形山の麓にある観龍寺に
陣屋を置いて物資を調達した。観龍寺の山門の鴨居にはその当時槍で突かれてできた傷痕が残っている。
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観龍寺本堂・太子堂 |
阿智神社 |
観龍寺から鶴形山公園に行き、阿智神社に行った。
阿智神社は、倉敷の総鎮守。倉敷美観地区の北にある鶴形山と呼ばれる小高い山の上に鎮座している。
美観地区の見晴らしもよかった。
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休憩所で美観地区を一望する |
阿智神社拝殿 |
阿智神社拝殿では、七五三のお詣りをしていた。
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61段の還暦坂 |
阿智神社入り口 |
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火の見櫓 |
倉敷川の景観 |
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赤レンガで囲まれた児島虎次郎記念館 |
児島虎次郎館の説明 |
児島虎次郎記念館は、倉敷アイビースクエア内にある別館で、1908年(明治39年)に建てられた倉庫を利用している。
見たかった児島虎次郎の「里の水車」も見ることが出来た。
児島虎次郎室とオリエント室に分かれており、児島氏の作品と 児島氏が収集した古代エジプト美術を中心に、
中世イスラム美術、先史イラン美術が約500点展示されている。
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代官所跡石碑 |
代官所跡 |
倉敷アイビースクエアは、明治時代、倉敷紡績(クラボウ)の紡績工場だった場所を、リフォームしてホテルとなっている。
江戸幕府の代官所跡に明治22年(1889年)に建設された倉敷紡績創業の旧工場で、昭和48年(1973年)に改修され、観光施設として再生された。
倉敷は、江戸時代は幕府天領として代官が置かれていた。倉敷代官所は、備中、美作、讃岐に散在する幕府天領の年貢米、
物産が集められ、富が集積する場所であった。その代官所を第二奇兵隊が襲撃したのが、慶應二年(1866)四月のことである。
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蔦に囲まれた建物 |
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睡蓮 |
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広場 |
倉敷アイビースクエア |
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紡績製品原綿積み下ろし場跡 |
地酒専門店の、土手森(1925年設立) |
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倉敷川船流し |
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分館前 左の像は「歩く人」(ロダン) |
横たわる母と子(ムーア) |
分館に入っていないことに気付いて、最後に回った。1961年に建設された分館の前にはロダン・ムーアの作品が立っている。
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大原美術館 |
再度大原美術館の本館前に出て、写真を撮って、倉敷駅の方に戻った。
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