松本城 

2015年5月31日

松本城を観に行ってきた。行きは高速道路も渋滞がなかったので、朝7時ころに東京を出て、9時半頃には到着する。

   
大名町大手門井戸  松本城天守 

松本城を築城したのは、石川数正である。もともとは徳川家康の重臣であったが、豊臣秀吉に寝返ったとのこと。

当時、秀吉は家康を僻地の江戸へと追いやり、江戸を取り囲むように家臣に城をつくらせて包囲網を構築していた。

松本城もその一つであった。家康が大阪の秀吉を攻めようとしたなら、中山道上の関所としての役割を持たせている。

松本城の築城は、秀吉に忠誠心を示す絶好のチャンスだったのではないかといわれている。

地盤が緩いため、石垣は低めであるが、由香氏の石落は、11もあって、防衛力をあげている。

   
黒門( 一ノ門)  二ノ門

10時になると、ボランティアガイドさんの説明が聴けるという話だったので、しばらく時間があり、太鼓門などの見学をして待った。

一ノ門を入るとかつては本丸御殿があった。本丸御殿に通じる格調高い正式な門という意味で、当時の最高の色調である

櫓門と枡形からなり、本丸防衛の要である。黒の名を冠して「黒門」と呼んだといわれている。

二ノ門は、内堀を渡ったところにある門で、高麗門。平成元年11月、この門とこれに続く控塀(ひかえべい)がつくられ、枡形が復元。

この控塀には狭間(さま)が切られ、対岸の敵に備えて火縄銃で攻撃できるようになっている。

   
城内側からみた一の門(櫓門) 枡形に入って、太鼓門の一の門(櫓門) 

二ノ丸東側の黒門は、櫓門と高麗門から構成される枡形虎口となっている

太鼓門は、江戸時代は倉庫として使用。明治初年に破却されたが、平成3年から発掘調査、同4年に石垣の復元を完了し、

同11年に土台石の形に合わせて柱を削り、太鼓門が復元。周りの壁には狭間(さま:銃眼、矢眼)が見られる。

   
太鼓門枡形の由来   切株

太鼓門は、時の合図、登城合図などを知らせる太鼓楼(写真右上段柵内)が併設された重要な位置付けにあった枡形門。

太鼓門と言う名前はその名の通り枡形の北側の土塀の向こう側に太鼓を打ち鳴らす太鼓楼が建っていたとか(これは再建されていない)

平成8年〜11年に太鼓門が復元された際に櫓内の梁に使用された樹齢1400年の赤松の切株の説明があった。

   
 外側より高麗門  太鼓門



   
太鼓門礎石の由来  二の丸御殿跡 

門の近くの芝生には太鼓門礎石の由来と寄贈された礎石があった。

城の中に入る前にボランティアガイドさんの天守閣の説明を聞いた。城が作られた歴史や

本物の城を味わってくださいという言葉が印象に残った。

   
天守閣   鉄砲狭間

松本城は五棟連結の城である。

松本城は戦国時代の永正年間に造られた深志城が始まりで、現存する五重天守の中では日本最古の国宝の城。

松本城の天守は、五重六階の大天守を中心として、その北側に渡櫓と乾小天守、東側には辰巳附櫓と月見櫓が

連結された、連結複合式の天守である。天守閣に、辰巳附櫓が、そして月見櫓が増築されていることがよく分る。

造られた時代が異なる黒く重厚な部分と、宮殿的部分が混在している。中に入るとつながっており、一周をした。

大天守と、泰平の世になって造られた辰巳附檜・月見檜のまとまりは「複合式天守」は、それぞれの時代を象徴。

この連結複合式天守は松本城だけに見られる特徴的な構造となっている。

   
大天守一階   石落 

天守閣では、戦国時代の主力武器であった鉄砲戦への様々な工夫がみられる。

壁には、矢狭間、鉄砲狭間があわせて25ヶ所もあり、天守、乾子天守、渡櫓の一階には石落も設けられている。

石落は石垣を登ってくる敵を防ぐ工夫で、狭間と同じように鉄砲を使っての攻撃も可能であった。

天守の1階は、食糧や弾薬などの倉庫であったと思われる場所で、かつては柱の間に壁があり、それぞれ部屋がわかれていたと推測される。

   
昭和の修理までつけられていた 鯱  入母屋破風、千鳥破風を飾っていた懸魚(げぎょ)

懸魚は,水と縁の深い魚の身替わり。水の役目をする魚を屋根へ 懸けて火伏せを祈っている。

建物が切妻屋根か入母屋造りの寺社や城,武家屋敷,庄屋屋敷など格式の高い建物の屋根に

付けられているが,左右に手を広げたような所をひれといい,これは水の模様のひれ付きの懸魚。

   
 展示されている火縄銃 鉄砲頭の甲冑 

   
 突上戸(つきあげど)  長篠の合戦の展示をみる。

突上戸(つきあげど)。板製の戸を格子の外に上から吊り、外側に跳ね上げて開く戸である。

   
  埋門(うずめもん) 

西側で、「埋の橋」が見える。埋門(うずめもん:非常時には土砂等で埋めて塞ぐ)にかかっているのでこの名が付いた。

昭和の大修理(昭和25〜30年)時に、絵図を元に架けられた。

松本城の階段はどこも55度から61度と急勾配で、特に4階から5階へと上る階段は最も険しい。

最上階に登るところは、人が多くて、しばらく待って登る。

   
天守閣五階内部   建言書や懇願書など

天守閣五階内部は、天井が高く、四階あるいは六階の御座所の中間にあって、軍議等を開く間とも言われている。

天守の高さは約30m、10階建てのビルに相当する木造建築と言うことである。

   
天守閣六階の真上にある「二十六夜社」   最上階からの展望、本丸を見下ろす。

最上階に上ってきて、真上にあったのが 二十六夜神。これについては、案内板が用意されていた。その謂(いわ)れを引用。

   
 守護神二十六夜社勧請の謂れ   天守内部から見た千鳥破風。
守護神二十六夜社勧請の謂れ
 天守六階、小屋梁の上に二十六夜社を勧請したのは、元和四( 1618 )年である。其の年の正月、月令二十六夜の月が
東の空に昇る頃二十六夜様が、天守番の藩士川井八郎三郎の前に美婦となって現われ神告があった。
「天守の梁の上に吾を奉祀して毎月二十六日には三石三斗三升三合三尺勺の餅を搗(つ)いて斎き、藩士全部にそれを分かち与えよ。
さすれば御城は安泰に御勝手向きは豊かなるや」。 翌朝、このことを藩主に言上し、翌二月二十六日に社を勧請し、以来明治維新に
至るまで其のお告げを実行してきた。お陰で松本城天守は多くの危機をのり越えて無事今日に至っている

天守内部から見た千鳥破風には、格子窓がつけられ、内側に数人が入れるスぺースを設けて攻撃拠点にしている。
   
月見櫓内からの眺め  月見櫓から見た天守閣東側面 

階段を二階まで下りてきたら、次は月見櫓へと向かう。天守閣と月見櫓を繋ぐのは、 辰巳附櫓 と呼ばれる

月見櫓から見た天守閣東側面には、石垣の上の1階には張出した石落や、矢狭間(縦長の穴)、鉄砲狭間(正方形の小さい穴)がある。

   
 月見櫓 小笠原牡丹 

月見櫓は、月見をするための櫓で、周りには朱塗りの回縁(まわりえん)がめぐらされている。

月見櫓内は、三方が開放されており、暗い天守閣他内部とは全く雰囲気が違う。

城主が松平直政の時代の寛永年間に将軍家光を迎えるために増築が許され、実現されたもの。

   
 武者姿の方  松本城天守

   
 市川量三と小林有也の像  松本藩歴代藩主

明治維新後は、政府の政策により各地の城郭が取り壊されるのだが、松本の象徴だった天守閣も明治五年( 1872 )に、

金235両一分と永150文で競売にだされる。このままでは、天守閣が失われると感じた市川量造ら地元の有志がこれを買い取り、

また、初代松本中学校の校長を務めた小林有也(うなり)は、明治三十五年( 1902 )に天守閣保存会を結成し、

崩壊寸前だった天守閣を保護している。昭和十一年に国宝指定。昭和二十五年には、現存する資料を基に

修復作業(昭和の大修理)が行われ、築城以来四百年の時を経た今日にその姿を残すこととなったのである。

松本城の後は、大王わさび農場に行き、帰りの高速道路は渋滞にはまり、2時半に出たが、6時半頃に東京に着く。