松代城 

2015年7月1日

   
松代城の説明  「国史跡 松代城跡 附新御殿跡」の石碑。 

 松代城は、武田信玄と上杉謙信が信濃の覇権を競った川中島合戦で、武田側の拠点として築城されたといわれている。

武田信玄が上杉謙信の攻撃に備え、山本勘助に命じて築城しているとのこと。

千曲川の流れを外堀とする天然の要塞で、当時は「海津城(かいづじょう)」と呼ばれた。
 
江戸時代に真田信之が上田城から松代藩主として移った後は、真田氏10代が城主としてこの地を治め、

10万石の城下町を形成。1711年に幕命により松代城と改名。明治の廃城にともない建物が壊されたため、長い間

石垣を残すのみだったが、1981(昭和56)年、新御殿(真田邸)とともに国の史跡に指定された。その後、

長野市により環境整備工事が行われ、2004(平成16)年に櫓門・木橋・石垣・土塁・堀などが復元された。

   
松代城跡  太鼓門と前橋 

城跡には「南側入口」と「北側入口」がある。太鼓門は、南入口にあり、二の丸南門跡にある。

奥の櫓門と手前の高麗門で内枡形を形成。発掘調査や絵図に基づき、太鼓門前橋と共に復元された

   
 桝形門(橋詰門)  枡形内部から太鼓門(本丸正面)城内側

本丸大手(正門)の出入口(虎口)は、桝形に石垣をまわし、二層の櫓門(太鼓門)と桝形門(橋詰門)の2つの門で構成している。

高さ11.8mの太鼓門は最大規模のものだったという。二階には時を報せる太鼓があったことから「太鼓門」と呼ばれているそうである。

「引き橋」は、いざという時には城内に引き入れることのできる構造であったのだろうか。

   
 東不明門前橋  本丸内部から太鼓門

太鼓門は2階建ての櫓門になっている。太鼓門を入って本丸側から太鼓門内側を見る。

控柱の上に乗る巨大な丸太は、左右の石垣をまたぐ長さがある。

内枡形の内部に入ってみると。20m×10mほどの空間である。

   
石垣と本丸の説明   海津城址之碑

本丸中央付近に建つ、石垣と本丸御殿跡の説明板。

松代城の石垣は大小さまざまな自然石を積み上げた特徴的なもので、特に本丸北西の戌亥櫓跡の石垣は

城内でも古い近世初頭(=江戸初期)のものとされ、高さと勾配の美しさが当時の石工の技術の高さを示しているとのこと。

明治期の改変や消失した部分を当時と同じ工法で積み直したとのこと。本丸御殿跡については、

御殿が本丸内に建っていたのは江戸中期頃までで、1717年の火災で焼失後には水害も度々発生し、

御殿は本丸南西の「花の丸」に移転された。右側の絵図(1751年)を見ると、本丸敷地内ほとんどが建物だったことが分かる。

搦手門前に「海津城址之碑」があった。

   
戌亥の櫓台 (展望台)石垣 展望台から東側を見下ろす

戌亥の櫓台は、最も高い石垣を持ち、まるで天守台のような戌亥隅櫓跡。

石垣は野面積みで積まれており、築城初期の頃のもののようである。

この石垣は松代城内でも古い近世初頭のものと言われている。

戌亥櫓台上から見下ろす東側。戌亥櫓台から東へ延びる石垣の奥には搦手門が見える。

この櫓門は「北不明門(きたあかずもん)」あるいは千曲川に面していた築城当初は「水ノ手御門」などとも呼ばれていたようだ。

   
石垣  復元された塀 

   
高麗門を外側からみる 戌亥櫓台を外から見上げる

北不明門 (きたあかずもん)は、太鼓門と同じく、奥の櫓門と手前の高麗門で内枡形を形成

以前は千曲川がすぐ外側を流れていたため「水ノ手御門」と呼ばれていたが、18世紀中頃に千曲川が河川工事で流れが

変えられ水ノ手じゃなくなったので、それ以降は北不明門と呼ばれるようになったとのこと。

   
 案内板  北不明門

案内板による、二の丸・三の丸が整備されたのは関ヶ原後に入封した森忠政の時代だとか。

復元図で見ると、千曲川を天然の要害としていただけあって、水堀が多い。

   
 北不明門  南西端から、太鼓門前橋方面を見る。

松代城跡には立派な石垣があちこちに見られるが、櫓門や木橋などを復元した平成の大整備で石垣にもかなりの

修復が入っているものと思われる。

   
 埋門 史跡松代城ごあんない 

本丸西側に伸びる土塁の真ん中あたりに、北側に抜ける埋門(うずみもん)が復元されていた。

埋門は、トンネル状に造られた門で、敵が侵入する際など緊急時には埋めることが出来る。

「史跡松代城ごあんない」では、立派な内堀とその内部に石垣に囲まれた方形の本丸があり、

その周囲には土塁で囲まれた二ノ丸があるようだ。天守は無く、本丸北西端の二層櫓(“戌亥櫓”)が天守代わりだった模様。

松代城の説明に木札も建てられており、「江戸時代の半ばには御殿が城の南西に位置する花の丸に移ることになり、

本丸は機能を持たなくなりました」とある。廃城後に本丸内の櫓等はすぐに破棄され、逆に花の丸の御殿は真田邸として

保存された(後に火災で焼失)のだろう。

   
真田公園にある恩田木工民親の銅像  真田幸治氏像 


初代藩主、真田信之の豊かだった時代は過ぎ、5代藩主・信安の時代の治世は混乱を極めた。

領地は荒廃し、度重なる幕府からの普請の負担により藩財政は窮乏。藩士の俸禄は半減、

年貢の増加、足軽の出勤拒否、百姓一揆が起こった。 やがて信安が死去し、16歳の若き藩主、

幸弘が藩主となり、藩の末席家老であった恩田木工は「勝手方御用兼帯」に抜擢される。
 
木工の改革の精神は木工の死後も受け継がれ、江戸末期になると松代藩の財政も改善したという。

   
真田宝物館   

時間があったので、真田宝物館に入って、見学をした。最初ゆっくり回っていたら、結構見るところがたくさんあり、

時間が無くなり、最後の方は、急いで回ることになった。