南相馬 

2013年12月13日

職場の組合で、福島の南相馬市まで日帰りで行った。現地では、「安全安心プロジェクト」の吉田さんが

案内をしていただけた。最初、飯館村を案内していただく予定であったが、東北道で事故渋滞などがあり、

思ったより時間がかかり、11時半の待ち合わせの時間に間に合わなくて、結果的には、飯館村はあきらめて、

南相馬市だけを案内していただいた。途中、飯館村で昼食を食べようとしたが、飲食店はないといわれたので、

飯館村に入る前にラーメン屋に入る。自然豊かだった飯館村は、今は「居住制限区域」に指定されている。

したがって、住むことはできないが、家に出入りすることはできるので、車の往来はあって、車はよく見かけた。

さびしい村となっている。村役場も移転中となっている。また、作付制限地域でもあり、

田畑は一面に雑草が生えている光景が広がっていた。飯館村から八木沢峠を越えると南相馬市に入って、

しばらく下ったところで車を止めて、吉田さんと待ち合わせる。吉田さんは、もともとは東京に住んでいたが、

現在は南相馬に住んでいるとのこと。東電の職員だったこともあり、放射線の測定の仕事にも

従事したことがある。今回の訪問は、今なお続く福島の深刻な現実を目の当たりにした。

   
仮設住宅   仮設住宅

南相馬市をしばらく車で行くと地震や津波、原発で避難した方々の為に仮設住宅がたくさん作られていた。

原発で問題になっている一つは、20キロ圏内、圏外とか単純に距離で測って区別していることである。

東電の補償も3段階に分かれ、小高区は保障され、原町はやや劣り、鹿島区はほとんどなしになっている。

そのような状況で、、隣同士で保障される家と保障されない家があり、そこで分裂状態にさせられていて、

運動がまとまらない状況が作り出されている。放射能の量ではなく、場所で区別され、分断されているのである。

また、保証で、酒やパチンコに入り浸る人もいるが、求職活動が思うようにいかなかったり、虚脱感は見逃せない。

海岸に近づくと復旧作業が続けられていた。瓦礫は片づけられていたが、まだ車がひっくり返ったりしていた。

   
 仮設住宅 クレーンで撤去作業 

原発の近くで住んでいた人は、原発事故の前に、原発の恩恵を受けていて、事故が起きたら、多額の補償をいただいて、

県外に避難をしている。本当に困っている人は、原発の恩恵を受けていなかった人たちで、今回の事故で、

補償も受けられなくて、仮設などに住み、苦しんでいる。結局はお金のある人たちは避難をしている。

そして、知識があって、意識のある人たちは出てしまっているのである。

   
とても住めるような状況でない家屋   平地になっていた。

市政に対しても批判的であった。市長は人の流出を防ぐために「国が安全と言っています」というが、

その根拠になる証拠やデータはない。確かに南相馬市は、飯館村などと比べると線量は低い。

しかし、放射能は残っているし、場所によっては高いところもあるし、食の安全の問題等もある。

市の職員が300人減り、そのうち200人が医療関係者であるといわれる。安全でないことが

わかっている人は避難しているのである。安全でない福島県産の食物は不安である。

地元の人は地元産は食べていないという。みかんをいただいたが、和歌山県産であった。

確かに、故郷に残りたい気持ちは尊重されなければならない。しかし、避難が出来る費用や条件があっても、

残ることを選択するならいいが、避難をしたくても、残らざるを得ないことが問題であるといわれる。

   
 線量計と家屋 廃墟と化した家 

第一原発は津波ではなく、地震で壊されたという。そうなると、今ある他の地域の原発も危ないことになる。

   
 線量計を見る。 ひっくり返った車 

ひっくり返った車がまだあちこちにあり、まだ処分しきれていないのを感じた。

   
津波で流された跡  残っていた住宅 



   
 残っていた一部の住宅  傾いた家

   
 新築の住宅が流されて、ブロック塀で止まる  海岸線

津波で流されて、更地が続く。一部、流されないで残っていた住宅があったが、近づいてみると、

悲惨な状況になっていた。新築の住宅が、流されて、ブロックにぶつかり止まったようであるが、とても住める家に

はなっていなかった。海岸線は広かったが、ここで大津波が押し寄せたと思うと、自然の猛威を感じた。

   
一本松。 ガードレールが積み上げられていた。 

津波に枝を落とされ、、幹を伸ばす一本の松があった。枝が落ちているということは、そこの高さまで津波が

至ったということである。曲ったガードレールが積み上げてある場所もあった。

   
 汚染物質の仮設置場  除染処理のための作業

仮設置場では中が見えないようにするためなのか、柵が組み立てられており、中に黒い袋で汚染物質が置いてある。

平地になっているところは表土の5pぐらい削って、汚染土を取り除くのである。しかし置く場所がないので、

隠すようにしているかもしれない。除染のための作業をしている人たちがいた。マスクと防護服を着ている。大変な作業である。

その後、車で小高くなっている場所に移動すると、線量計の数値がみるみる高くなっていく。放射線はガラスを通すので、

車の中でも外と変わらなくて、乗っていても測定ができるのである。新しく舗装された道路のところは、

まだ数値は低かったけど、古いアスファルトになる場所で高くなり、山の斜面があるところはまた高くなっていた。

また場所によって、、数値が高くなったり、低くなったりする理由を尋ねると、事故後に雨が降った場所で集中的に

汚染されたことも考えられ、どちらかというと南相馬市は風で流れて、数値は低くなり、飯館村や中通りなど

山を越えて、放射線が流され、雨が降り、落とされて線量が高くなったようでもある。

山側の表土をすべて削ることはできない。たとえできたとしても、裸の山になり、崩れやすくなるし、

川や海にも影響を及ぼして、自然の破壊につながっていく。

2011年3月11日の夕方には、福島第一原発で勤務していた方から、すでに地震によって配管が

破損したり外れたりして、水がどんどん流れ危険だということが吉田さんに連絡が入ったとのこと。

東電幹部はその時点で避難をしていたのである。

   
 線量計(0.74mSv) モニタリングポスト (0.22mSv)

モニタリングポストは、600万円から800万円ぐらいかかっているといわれる。ポストの数値は、0.22mSvを示していたが、

近くの土壌で線量計をあてると、0.74mSvであった。モニタリングポストの周りは除染されていて、コンクリートで

底上げをされていて、遮蔽されているので、数値としては低く出てしまうのである。

高いお金をかけて、モニタリングポストを作る意味があるのかなとも思ってしまう。

確かにモニタリングポストがあるところは除染しているので、ポストのある公園で子どもたちは遊ぶともいう。

しかし、除染を一部の場所にしても、あまり意味がなく、それよりは、避難させた方がいいとも思われる。

除染にも従事していた吉田さんは、除染は成功しないといわれる。飯館村の除染費用が3224億円

町民一人あたり、5千万円を超える。このお金で皆引っ越しが出来るのである。

原発事故の放射線の影響はガンのリスクも高い。後々にも影響する。子どもや妊婦は避難すべきである。

少なくても避難するかしないかの選択ができることが重要である事を強調される。

   
吉沢牧場  吉沢牧場 


南相馬市内の山間の道を、車で南下すると吉沢牧場があり、看板の前に出た。その先は、立ち入り禁止になっていた。

牧場の吉沢さんは、原発から20キロ圏内の家畜を殺処分するという国の方針に逆らい、今も300頭を超える

牛の世話をしている。看板にはゲバ文字で「決死救命、団結」と書かれたブルドーザーも置いてあった。

そして「殺処分反対」の文字があった。牛の頭や足などの骨もぶら下げていた。

帰りも東北自動車道の二本松インターに行くために、飯館村を通ったが、公民館などで除染作業をしていた。

しかし、そこだけしても地域や山自体が汚染されているので、なかなか根本的解決につながらない。除染は到底終わらない。

いずれにしても、これだけ甚大な被害をこうむる原発施設。もし戦争になれば、真っ先に原発がある場所に攻撃を

かけられれば、致命的になると思った。次世代につながる問題であり、、被害をこうむるのは弱い立場の人である。

放射能と闘っても勝てないという言葉が印象的である。