2019年8月10日
搦手口 | 搦手口 |
お盆休みがとれて、せっかくの連休なので、どこかに行こうと考えていたら、
100名城を回ってみることにした。車も使えそうだったので、今回行く城は、
車が便利そうなので、車で行くことにした。渋滞が予想されたので、
できるだけ朝早くに出かけることにした。まずは、前橋インターで下りて、箕輪城である。
箕輪城は、榛名白川によって削られた河岸段丘に梯郭式に曲輪が配された平山城である。
城の西には榛名白川、南には椿名沼があり、両者が天然の堀を形成していた
南北約1,100m、東西約500mという広大な城域を大堀切で南北に分断している。
城は戦国時代初期に関東管領山内上杉氏の重臣長野氏によって築かれ、その後武田氏、
織田氏、後北条氏、徳川氏の城となる。1590年(天正18年)徳川家康の関東入りに伴い、
井伊直正が城主になり城を近世城郭に改築したが、その後8年で直正は高崎城を築いて
居城を移し、箕輪城は廃城となる。現存する遺構は直正の城主時代に造られたものが少なくなく、
大手の移設や主郭部分の石垣の多くは直正城主時代の遺構とされる。2014年(平成26)から
伝統的工法で復元を進めていた井伊氏時代(16世紀末)の郭馬出西虎口門が
2016年(平成28)11月に完成し公開されている。
長野氏、後北条氏の時代は 搦手口が大手口だったようである。
二ノ丸 | 旗がたなびく |
大堀切と土橋 | 土橋と大堀切 奥に郭馬出 |
二の丸から大堀切の向こうに郭馬出を望む。向こうに少し見える土橋は
郭馬出へと続く。三の丸と二の丸の南側には大堀切という巨大な堀切があった。
この大堀切によって、南北2つに分かれる。土橋一つでつながっている。
一方を失っても片方だけで我慢を続けられる仕組みのものを「一城別郭の城」という。
門は郭馬出西虎口門
大堀切の階段 | 郭馬出 |
大堀切は階段もついていて、登れるようになっている。
郭馬出西虎口門 | 郭馬出西虎口門の説明版 |
郭馬出西虎口門を復元し、平成28年11月23日から公開している。
平成14年度の発掘調査によって、郭馬出西側の出入口(虎口)部分で
井伊氏時代(16世紀末)の城門の柱の礎石が8石確認された。
大堀切突き当りの石垣と土橋 | 木俣 |
大堀切突き当りの石垣と土橋。登りきったところには、石垣と上は郭馬出から
二の丸へ入る土橋。廃城の頃の土橋と石垣を再現している。廃城後
削られた土橋部分は盛ったし、本物の石垣は埋めて保存している書かれている。
通路が二つ、三つに分かれるように、5つの方向に分かれることを木俣という言うらしい。
午前曲輪 |
木俣から搦手口に戻り、写真の道標に再度来て、御前曲輪の方向に歩いた。
左の午前曲輪、本丸、三ノ丸方向に歩く。お薦めの中央コースはあるらしいけど、
あちこちに行ったり来たりして、回った気がする。
松尾芭蕉の句碑 |
御前曲輪で井戸、城跡碑及び「箕輪城将士慰霊碑」、由来文石碑が建てられている。
松尾芭蕉の句「夏草や兵どもが夢の跡」を安田一雨という人がが書いたという。
御前曲輪 |
北虎口の先、御前曲輪なる詰めの曲輪は、案内板によると、
「この郭(曲輪)は本質的には本丸の一部であった」とある。
落城の際、城主、長野業盛はここにあった持佛堂に入っ
て自刃し、一族郎党みな後を追ったと伝えられている。
本丸 | 由来文碑、城跡碑 |
午前曲輪から本丸に出た。
本丸 |
三ノ丸 | 三の丸門跡石垣 |
三の丸には門跡の石垣が築かれている。
三ノ丸の石垣 | 箕郷支所(みさとししょ) |
100名城のスタンプを押す場所がわからなくて、城跡の下で畑作業をしている方に聞くと、
本丸の手前にあるといわれ、再度行ってみると、木箱が置いてあった。
木箱の中にはスタンプはなく、スタンプされた紙片が入っていた。お持ち
帰り用である。これをスタンプ帳に貼っておきなさい、ということみたいである。
スタンプ設置場所は、箕郷支所(みさとししょ)になっていた。
そこまで車で移動して行った。休日・夜間受付窓口が設置
してあった。盗難にあうため、城の現地には置いていないらしい。
旧下田邸 | 庭園 |
旧下田邸は広い屋敷内に造営された風流な書院と庭園で、
江戸時代初期の建築と造園の様式を知ることができる。
忠臣蔵で名高い剣豪堀部安兵衛が作庭したといわれている。
旧下田邸書院及び庭園は、箕輪城主長野氏の重臣であった下田大膳正勝の
子孫が落城後この地に土着し、代官として居を構えた屋敷跡である。
そば忠で、ざるそばの大盛と天ぷらを注文。値段も手ごろで、美味しかった。