長野旅行 

2005年6月9日

   
 大王わさび農場  「大王窟」と「開運洞」の入り口

職員旅行で長野に行く。

   
水車   

1989(平成元)年に黒澤明監督の映画『夢』のロケ地ともなった。
蓼川(たでがわ)にかけられた三連の水車は撮影時のまま残されている。

   
  岩松院の仁王門 

長野県小布施町(おぶせまち)にある文明4年(1472年)開基の曹洞宗の古刹が岩松院(がんしょういん)。
本堂の天井に描かれた『八方睨大鳳凰図』(はっぽうにらみほうおうず)は、北斎晩年に描いた実に
21畳という大きさの大作鳳王画がある。

   
福島正則の霊廟   一茶句碑

岩松院本堂裏の石段を上ったところには、賤ヶ岳七本槍のひとりに数えられ、
寛永元年(1624年)に没した福島正則(ふくしままさのり)の霊廟が建立されている。
岩松院の裏庭には「蛙合戦の池」があり、小林一茶の句碑が池のそばに立っている。
1816年4月20日にここを訪れ、蛙がメスを奪い合う合戦を見て、
「やせ蛙 負けるな一茶 これにあり」と詠んだ。
病弱な初児、千太郎への命乞いの気持ちを込めて境内で詠んだ句。
願いは通じず、千太郎は生後1ヶ月あまりでこの世を去っている。

   
岩松院(がんしょういん) 本堂  

   
  北斎館 

昭和51(1976)年に開館した北斎館は、北斎が80歳を過ぎてから熱中した肉筆画をはじめ、
北斎が手がけた2基の祭屋台や天井絵など、小布施で育まれた北斎の画業を鑑賞することができる美術館

   
祭屋台の天井絵  男波と女波

「男波」「女波」の怒濤図は弘化2年(1845年)北斎86歳の時の作品。

   
「鳳凰」(左)と 「龍」(右)    「碧漪軒」(へきいけん)

85歳のころ、小布施に半年ほど逗留(とうりゅう)した北斎は、まず東町祭屋台の
天井絵『龍図』と『鳳凰図』を描いている。しぶきを上げる波濤(はとう)が取り囲む中、
燃えるような紅地に飛翔(ひしょう)する龍と、暗い藍を基調にした背景に鮮やかな朱色で彩られた鳳凰。
翌年、再び小布施を訪れた北斎は上町祭屋台に取り組み、怒濤(どとう)図『男浪(おなみ)』と
『女浪(めなみ)』で、砕け散る波しぶきや逆巻(さかま)く大波を見事に表現している。
「碧漪軒」は、高井鴻山が江戸からはるばる訪れる高齢の北斎のために用意したアトリエ。

   
北斎の画室 「碧漪軒」  「碧漪軒」

北斎は、83歳の時に小布施の鴻山を初めて訪ねている。その時、鴻山は37歳
北斎を慕っていた鴻山は、「青いさざなみ」の意味を持つこのアトリエを北斎のために建てた。
鴻山は妖怪画を得意とした。

   
 高井家の井戸 酒宴妖怪図 

   
 抜け穴  抜け穴

建物の1階にあるアトリエは、壁に鴻山による「碧漪軒」の書が入った額がかけられてある他は、至って質素な和室

   
  「翛然楼(ゆうぜんろう)」 


北斎のアトリエの上階には、「翛然楼(ゆうぜんろう)」と名付けられた鴻山の隠居所がある。
書斎兼サロンとして使われ幕末から維新に文人墨客や幕末志士がここに通された。
北斎を筆頭に、思想家で松代藩士の佐久間象山、長州藩士の久坂玄瑞、書画家で志士の
藤本鉄石をはじめとする広い分野の人が訪れた。佐久間象山とは、写真手前に写る
鴻山愛用の火鉢をはさみ、政治についての熱い討議を交わしたと言われている。
翛然楼へは、多くの志士が訪れ国事を論じたといわれ、身の安全を考えて
咄嗟の間に逃れる仕掛けを工夫していた。一件押入れに見せて中に二重の床板を
張りその中にかくれて下に降り、逃げ穴を通って本宅と表の座敷へ逃れることができた。

   
 高井鴻山記念館 自在屋 

   
横手山山頂   

長野県志賀高原の南東端に位置する標高2,307mの横手山山頂までリフトで行く。眺望がよい。