長篠 

2018年11月11日


長篠城駅から茶臼山駅まで歩いた。

   
大まめ蔵  長篠駅 

前日は、名古屋で同窓会があり、愛知の実家で泊まる。
大まめ蔵でモーニングを食べる。おとうふ市場 大まめ蔵は、
工場が隣接する店舗。モーニングは寄せ豆腐・パン・サラダが食べ放題である。
妹夫婦と母親に安城の駅まで送ってもらい、豊橋行きの電車に乗る。
豊橋駅からは、飯田線で長篠駅まで行く。長篠駅はICカードが
使えないとのことで事前に豊橋駅で下りて、切符を購入した。
長篠駅に着くと、さわやかウォーキングの催しをしていた。
催しは、スタートは長篠城駅、ゴールは新城駅の12.3kmである。
私もチラシをもらって、歩き始める。

   
長篠城址史跡保存館   名古屋おもてなし武将隊

まずは、長篠城址まで歩いていく。長篠城は、織田信長と武田勝頼の戦いで知られる長篠の
戦いの舞台の1つとなった所である。豊川の断崖上に設けられた要塞である。

 長篠の攻防と設楽原の合戦
 天正3年(1575)5月、武田信玄のあとをついだ武田勝頼は西へ勢力を伸ばすために重要な拠点となる長篠城を1万5千の軍を率いて包囲し攻撃しました。城主奥平貞昌以下500の兵は、よく攻撃に耐えましたが、大軍に抵抗するにも限界となったため、織田信長、徳川家康へ救援を請うため鳥居強右衛門を岡崎へ遣わせました。5月18日、信長3万、家康8千の援軍は城の西方約4キロメートルにある設楽原に到着して陣を築きました。武田軍は20日、長篠城の包囲を解いて設楽原へ進出し、21日の夜明けとともに織田・徳川軍の陣地に突入して壮絶に戦いましたが、大量の火縄銃の攻撃にさらされ歴戦の武将を多く失った勝頼は、数騎の味方に守られて敗走しました。


   
「血染めの陣太鼓」  「鳥居強右衛門の勇気」コーナー 

強右衛門の活躍もあり、織田・徳川連合軍と長篠城を繋いだことで落城は防ぐことができた。
そして、その3日後に行われたのが、馬防柵と火縄銃で有名な設楽原の決戦。
この戦いで織田・徳川連合軍が勝利を収めた。

   
 磔になった鳥居強右衛門のオブジェ  

天正3年(1575)の長篠の戦い。
長篠城主であった奥平貞昌は、家臣である鳥居強右衛門等の決死の働きにより城を死守した
寡兵で城を守りぬいた奥平貞昌らの奮闘が長篠の戦を勝利に導いたとされる。
この功績により、翌年貞昌は、信長から一字をもらい信昌と改名し、郷ケ原に新城城を築いた。
同年12月、信長のとりなしで家康の長女亀姫をめとり、4男1女をもうけました。
信昌の新城築城は、現在の中心市街区を形成する基礎となり、「新城」の地名の由来にもなっている。

   
 史跡碑と説明版 林高英頌徳碑 

長篠城は、豊川と宇連川が合流する断崖上にあり、本丸、帯郭、野牛郭、巴城郭、瓢郭、弾正郭等がある。
永正5年(1508)、菅沼元成が築城し、天正3年(1575)、徳川家康が奥平貞昌(信昌)を城主に任命し、城を守らせた。
林高英頌徳碑、江戸の中頃、ここ長篠に生まれた代官 林高英は日置流雪荷派師範としての名が
高く門弟およそ七百人といわれ、その教えは今も残されている。

   
   

   
 内堀と土塁  堅木植樹の碑

平成2年(1990)、アメリカ合衆国テキサス州サンアントニオ市にあるアラモ砦跡で、
志賀重昂建碑75周年記念式が行われ、その席で日米親善交流の証として、
志賀重昂の思いを長篠の地にも分けて移そうと、砦跡にそびえたライブオーク(樫の木)の
種子がアラモ側から長篠に贈られました。種子は育苗の後平成4年(1992)、
長篠城跡に植樹され、記念碑が建てられました。

   
長篠城址の南端。向かいの橋は、牛淵橋。  武田軍の様子を解説する看板「対岸、武田軍5つの砦」 

宇連川の向こう岸の山には、武田兵庫頭信実(のぶざね…信玄の弟) 以下各武将が陣をしいた。
5月20日、本隊は設楽原へ 進出したが、この部隊は長篠城の押さえとしてここに残った。
長篠城は二つの川の合流点に位置している.。その川の側は断崖絶壁であり堅固そのものである。
JR飯田線が本丸跡の中を通っているので、本丸が切り取られ、木々も伸び放題で、この堅固さを実感はしにくい。
長篠城は完全に武田軍に包囲されており、絶体絶命。それでも援軍を呼びに行こうと行動した強右衛門である。

   
本丸跡  土塁の上に長篠城址碑 

本丸の左側に、内堀を掘ったときに掻き上げられた土で出来た巨大な土居(土塁)がある。土塁に上がってみる。
土居の上に上がると、かなり古そうな長篠城址碑がある。

   
 内堀址 長篠城縄張り図 

長篠城縄張り図、JR飯田線が本丸を貫通する様子がよくわかる。

   
長篠城址史跡保存館   

   
馬場美濃守信房の墓 馬場美濃守信房の墓 

細い畑の裏の路地を通って馬場美濃守信房の墓があった。長篠の戦の際に武田方が
敗れて敗走する際に,しんがりをつとめてこの地で朽ち果てた馬場美濃守信房の首を
この地に埋めたといわれる。馬場美濃守信房は、「信春」とも名乗った。生涯、討死するまでは
1ヵ所たりとも手傷を負うことなかったという馬場信春。武田四宿老の一人となり、
指揮官としての戦場での才覚はもちろん、築城の技術にも長けていたという。

   
鳥居強右衛門の看板  鳥居強右衛門の磔の地

長篠の戦いで一躍有名となった足軽・鳥居強右衛門(とりいすねえもん)
強右衛門の脱出ルートなどを詳細に記した看板が設置されている。
城主・奥平貞昌は岡崎城へ援軍要請の使者を送ることを決め、武田軍の重包囲の中、使者の役割を
かってでたのが鳥居強右衛門。強右衛門は夜陰に乗じて城を出ると、得意の水泳で川を潜り脱出に成功、
翌朝、烽火で脱出の成功を城に伝えたあと、岡崎城にたどりつく。岡崎ではすでに織田信長が武田との
決戦のために3万の援軍を率いて到着、翌日にも長篠城救援に出発する手はずを整えていた。
強右衛門はこの吉報を仲間に知らせるべく、長篠城へ引き返す。しかし、入城を試みたところで
武田の兵に発見され、捕らえられてしまう。織田・徳川との決戦の前になんとしても長篠城を落として
おきたい武田勝頼は、命を助け、武田家で厚遇することを条件に、強右衛門に「援軍は来ない」と
城に向かって叫ぶよう命じる。強右衛門はそれを承諾し、長篠城の西岸に引き立てられていく。
しかし、強右衛門は三河武士。城の仲間に向かって「あと2、3日で織田・徳川の援軍が来る。
それまでの辛抱しろ!」と叫んだ。激怒した勝頼は、その場で強右衛門を殺したが、
この強右衛門の決死の覚悟に城兵たちの士気は大いに上がり、ついに城を守り通した。

   
戦国の陣没将士墓苑  武田群の墓 

新昌寺には強右衛門の墓の他に、武田軍の武将の墓も4つ鎮座している。

   
 鳥居強右衛門の墓 鳥居駅 

鳥居強右衛門の墓には立派な台座があり、入口の前には狛犬もあった。
鳥居駅から乗る人もいた。鳥居強右衛門最期の地にちなんで、この駅名がつけられたのだ。
鳥居駅からしばらく歩いていくと、道の駅「もっくる新城」があり、愛知の実家でもらった
ミカンを食べながら休憩をした。朝が食べ放題だったので、お腹はあまり空いていない。

   
  合戦の死者の首を洗った「首洗池」 

長篠の戦いの時、この池で戦死者の首を洗ったという。 このような
地名が残ったのは、戦いがいかに壮絶であったかを想像させる。
近くには戦死者の霊を弔った「信玄塚」がある。(説明板より)

   
信玄塚にある閻魔堂   閻魔堂

「信玄塚」は、天正3年(1575)の長篠の戦いの戦死者を埋葬した塚とされる。
設楽原の戦いで主戦場となった竹広村の住民達は戦いの後帰村し、知名武将をそれぞれの地に埋葬した。
 残った多くの屍体を丘陵の1カ所に運び、大きな穴を2つ掘り、そこに埋めて塚を築いた。 
戦死者の多かった武田軍の武将を大塚に、戦死者の少なかった織田・徳川連合軍の武将を小塚に葬り、
塚頂に印の松を植えて、大塚様、小塚様とあがめて弔ったとされる。。

   
設楽原古戦場いろはかるた  設楽原歴史資料館 

400年以上昔、設楽ヶ原で起こった織田・徳川連合軍と武田軍との戦いを48句のカルタで
詠み表したのが「設楽原古戦場いろはかるた」。往時をしのび、戦跡や伝承を残していこう、
と作られたもの。合戦や火縄銃の展示がある「設楽原歴史資料館」。歴史上の出来事で
二つの出来事を紹介している。1つは戦国の分岐点を演じた鉄砲の戦い「長篠・設楽原の戦い」。
2つめは日本開国の基となった幕末の日米修好通商条約調印の立役者である岩瀬忠震である。

   
 鎧の展示 火縄銃 

設楽原歴史資料館は日本一多くの火縄銃を展示している資料館で、火縄銃や
馬防柵を見るだけでなく、火縄銃(レプリカ)を使ってポーズをとることも可能である。

   
   合戦絵巻

   
展望室からの眺め  馬防柵がみえる 

設楽原歴史資料館の屋上は展望台になっていた。馬防柵もみえた。

   
馬防柵入口  馬防柵 

設楽原古戦場における合戦は一般的には長篠の戦いと呼ばれており、織田・徳川の連合軍と
武田軍が激突した戦場跡である。古戦場には連合軍が構築した馬防柵が再現されている。
この戦いは、武田軍の騎馬による突撃戦を織田・徳川連合軍が馬防柵の構築と大量の
鉄砲使用によって粉砕したことで知られている。

   
   

復元(再現)された馬防柵の一画に建つ「土屋右衛門尉昌次戦死之地」碑。
傍らに立つ「いろはかるた」の文句が合戦のすさまじさを呼び起こしてくれる。

あちこち見ながら歩いていたので、時間がかかり、さわやかウォーキングの時間枠を
超えたようで、資料館を過ぎたあたりから、道標の矢印がなくなっていた。
道がよくわからなくなったので、夫婦連れの方と話をしながら歩いて、途中で民家の方に話を聞いて、
新城駅まで歩くのはまだ結構距離がありそうなので、近くにある茶臼山駅から電車に乗ることにした。
夫婦連れの方より先に歩き出したが、こちらは道がよくわからなくなり、新城高校近くのコンビニで聞く。

   
徳川家康本陣跡   茶臼山駅

徳川家康は現在の東郷中学校の北側にあたる高松山に陣取った。
中学校西側の道の正面(北)に八剱神社がある。この境内地に「徳川家康本陣地」の石標が建っている
茶臼山駅に到着。夫婦連れの方は先についていた。浜松から来て、あちこちのさわやかウォーキング
に出て、歩いているようである。百名城の話をしたりしながら電車の来るのを待つ。