名古屋城 

2016年11月13日

名古屋城に行く。前日は名古屋で同窓会があり、終わってから実家に泊まる。
名古屋城は徳川家康が天下統一の最後の布石として築いた城

   
石垣   

「尾張名古屋は城で持つ」と言われ、「金のシャチホコ」がシンボルとなっている。昭和20年の空襲で、大部分が消失したが
戦後の再建工事によって今現在はほぼ元の姿を取り戻しているようだ。江戸幕府を開いた徳川家康が、
慶長14年(1609)、江戸幕府の東海道の要所として、また大阪方への備えとして築城。
家康の九男義直のために作られた城で、義直以降、徳川御三家のひとつ、尾張徳川家の居城として、明治まで使われた。
名鉄金山駅から地下鉄に乗り、市役所前駅で下りて、東門から入る。

   
はち丸と記念撮影   二の丸茶庭

名古屋市の市章は、○に八の字を書いて表している。制定されたのは明治40年10月のこと。
そこで、名古屋城のゆるキャラははち丸となっている。

   
東南隅櫓   

ボランティアガイドさんの案内で、東門前から名古屋城を見学した。。

   
 天守閣がみえる 清正公石曳きの像 

   
東南隅櫓   東南隅櫓の空堀

東南隅櫓は、本丸の東南(辰巳)隅にある外観は二層で内部が三階の隅櫓で「辰巳櫓」とも呼ばれ、
名古屋城で現存する隅櫓の一つで空堀の内堀に面している。攻めにくいようにあえて空堀にしていると説明される。

   
 本丸御殿  

名古屋城本丸御殿は、1930年(昭和5年)に国宝に指定されたが、昭和20年、空襲により天守閣、本丸御殿ともに焼失
平成21年(2009)1月に復元工事が始まり、平成30年の本丸御殿全体公開に向けて工事を着実に進めており、
平成25年(2013)5月から「玄関・表書院」、平成28年6月1日(水)からは、いよいよ「対面所・下御膳所」を公開している。
かつて名古屋城の本丸には、天守閣の南側に本丸御殿があり。この本丸御殿は、近世城郭御殿の最高傑作と言われ
国宝に指定されていた建物で、現在、国宝になっている京都二条城の二の丸御殿と並ぶ武家風書院造の双璧と言われていた。

本丸御殿は、藩主住居として創建時の1615年に建てられたが、三代将軍 家光公の上洛にあわせ上洛殿が増築されて以降
将軍用となり、藩主は二之丸御殿へ移ったという。明治以降も本丸は陸軍省から宮内省の所管となり、姫路城の保存にも活躍した
中村重遠大佐の尽力等もあって、本丸内の建造物は全てそのまま残されることとなった。明治中期の濃尾地震で破損した多聞櫓が
取り壊しとなるも、御殿、御門、隅櫓、大小天守はそのまま現存。しかし昭和20年5月、米軍による無差別爆撃により、2つの櫓と
表二之門を除く、ほとんどの建物は焼失してしまう。戦後、大小天守は鉄筋コンクリート造で再建。

   
 玄関一之間 虎の障壁画 玄関一之間東側襖絵 竹林豹虎図

玄関と呼ばれている部屋は、一之間(18畳)と二之間(28畳)の2部屋のことを言う。

   
   竹林豹虎図(二之間西側襖絵)

玄関 二之間。床の間は無いが、ぐるりと囲む壁という壁に金地の虎の障壁画描かれている。

   
表書院三之間   

表書院は、正式な謁見(目上の人と会う場所)のための部屋。5部屋で構成されている。
藩主が来客・家臣との公式な謁見場所として利用されていたという。

   
梁の下に格子を組んだ「格天井(ごう てんじょう)」  表書院 一之間とその奥の上段之間 

格の表現
高位の人が座る位置に、座敷飾りを設けたり、床を一段高くすることにより、一見して高位に人が使う部屋であることが
分かるように工夫しています。天井は竿縁天井や格天井。折上げ天井など、建物や部屋によって使い分けられています。
表書院の上段之間の天井は折上げ小組格天井ですが、対面所上段之間では、二重折上げ小組格天井で、
しかも格縁は黒漆塗であり、天井板には金箔が押してあり必見です。

一番奥の松が描かれた部屋は、「上段之間」(お殿様の部屋)です。他の部屋よりも一段高い作りになっている

本丸御殿は柱だけでも1本300万円という高価な木曽ヒノキを主に使った建物

   
表書院三之間  釘隠し 

   
 上段之間 横から 上段之間の天井「折上げ小組格天井」 

   
 表書院上段之間 天上は折上げ小組格天井  対面所次之間の紀三井寺

上段之間は、金ピカの「床間(とこのま)」に、金ピカの「床脇(とこわき)」。藩主に万一のことが無いよう、
帯刀した護衛兵が控えていると言われる右側の小さな戸の向こう側は「納戸之間」。天井は、一之間よりも更に格式の高い
「折上格天井(おりあげ ごう てんじょう)」。床の間の側面にも絵が描いてある

   
対面所 上段の間 賀茂競馬が描かれる。武者隠し。 対面所次之間より上段之間を見る

対面所は、上段之間(18畳)、次之間(18畳)、納戸一之間(24畳)、納戸二之間(24畳)の4部屋があり、
上段之間には京都、次之間には、春姫の故郷和歌山の名所が、多くの人々とともに描かれている。
襖の上の長押(なげし)と天井との間は通常壁だが、通気などのために穴が開けてある場合は「欄間(らんま)」と呼ぶ。
ここではとても細かい格子が嵌められているので「格子欄間(こうし らんま)」という。
上段之間は、書院の中でも高位の人が座る場所としてふさわしくなるよう、天井が折上(おりあげ)小組(こぐみ)格(ごう)
天井(てんじょう)で、床や長押の位置も高く、家臣らの座る場と違うことで、身分の差を表現している。また、床(とこ)の間、
違棚、付書院、帳台構(ちょうだいかまえ)の座敷飾が備わっており、部屋の格の高さを示している。
対面所は藩主と身内などの内々の対面・宴席の場として使用されていた。
上段之間には、表書院の上段之間と同じように帳台構えになっている。所謂武者隠しである。

   
山水花鳥図(納戸一之間東側襖絵)  山水花鳥図(納戸一之間東側襖絵)

納戸一之間は、上段之間のすぐ裏に位置する。

   
下御膳  下御膳所の天井 

下御膳所は、上台所で作られた宴席に使う料理を準備するための部屋である。中央には囲炉裏が切ってあり、
料理を温めるために使われていた。天井には、煙を逃がす工夫がされている。

   
 石垣の刻印  石垣の刻印

石垣の刻印は、築城時に石材が誰のものなのか、判別に利用した名残である。

   
 天守閣の鯱 清正石 

清正石は、加藤清正公が運んできた巨石として有名だが、実はここ本丸東門は黒田長政公の担当だったそうで、
この石も長政公によるものだが、巨石であるがゆえ、築城普請の名手として名高い清正公の名前がついて語り継がれてしまったようだ。

   
旧二の丸東二之門跡   

旧二の丸東二之門跡 もともとはここにあった門ではなく、現在の東門の外側にある東鉄門の
「一の門」だった高麗門を、1972年(昭和47年)に移築した。

   
   名古屋城入り口

   
金の鯱の拡大   実物大金鯱模型 

天守閣内に入り、まず、五階までエレベータであがり、5階から階段で最上階の展望室まであがる。

   
 北側からの眺め お堀  

   
 南側からの眺め 高層ビル群  

   
愛知県体育館   鯱の模型と記念撮影

ボランティアのガイドさんは展望室まで案内をしていただけた。5階から階段を下りてみて回った。

   
石垣の石を運びこむ様子を再現   江戸時代の休み処

   
 名古屋城の骨組み模型  素屋根内の工事見学 湯殿書院の予定地 礎石

   
 本丸御殿復元工事巣屋根工事見学案内 右は上洛殿、左は神御善所

素屋根内の工事現場が見学できるということで階段を登って、見学した。

   
 上洛殿(左)と奥の三角屋根が孔雀の間  刻印の石垣 

   
市営地下鉄市役所駅7番出口  名古屋市役所