中城城跡 

2019年12月30日

   
   

中城城跡は、中城村と北中城村にまたがり東北から南西にほぼ一直線に
伸びた標高150m〜170mの石灰岩丘陵上の縁辺部に立地する山城で、
南東側は15m以上の切り立った断崖、北西側は勾配のきつい傾斜面となって
いるため城内に至るには正門や裏門に面している南北の丘陵尾根沿いしかなく、
守りやすく攻めにくい地に築かれている。
はっきりとした年代は不明だが、先中城按司によって築かれ、護佐丸(1440〜
1458年居城)によって北の郭と三の郭の増築が行われたといわれている。
築城技術という点でも注目され、城は連郭式で六つの郭から成り、
南は断崖、北は急傾斜地となっている。城壁は、自然の岩石と地形を
たくみに利用した美しい曲線を描いており、南の郭・西の郭が「布積み」 、
三の郭と北の郭が「あいかた積み」の二通りの手法が用いられている。
カートで奥の正門まで連れて行ってもらい、そちらから入る。

   
カンジャーガマ  朱里に向かって開かれた正門 

カンジャーガマは、鍛冶を行っていたところとされているが、城のためか
集落のためか定かではない。一説によれば護佐丸が阿麻和利に
備えるために武具を造っていたとも伝えられている。
南西に向けられて建てられた正門(やぐら門)。門を挟むように両側に石垣が
せり出している。また、正門の近くには城壁の一部を取り除いた部分があるが、
これは第二次世界大戦当時、日本軍が防空壕を作ろうと工事を始めたが、
石垣の構造がとても堅固で作業が難航したため、諦めて撤退したとされている。

   
   

中城城は1454年、勝蓮城主・阿麻和利(あまわり)によって滅ぼされた。
後に琉球王朝の間切番所(まぎりばんしょ)が建てられ、
廃藩置県後は中城村役場として使われていたが、沖縄戦で焼失した。

   
 布積み あいかた積み(亀甲乱れ積み) 

正門に近い方から一の郭・二の郭・三の郭の名前があり、南の郭・西の郭・北の郭が周囲に配されている。

   
  ツワブキ 

   
小城ノ御イベ(久高遥拝所)と御富蔵火神(首里遥拝所)   一の郭の城壁とアーチの門

城内には首里城を遥拝したり、雨ごいのための御獄など、いたるところに拝所がある。
中城城には8か所の拝所があり、中でも南の郭には拝所が3か所ある。

   
 一の郭 一の郭 

沖縄のグスクでは本土より古い時代から石積み技術が発達していて
、中城城では時代によって異なる三種類の石の積み方が見られる。
最初に作られた南の郭に見られる自然の石をそのまま積む
「野面積み(のずらづみ)」、一の郭と二の郭に見られる四角い形に
加工した石を積む「布積み(ぬのづみ)」、三の郭と北の郭に見られる
多角形に加工し石を積む「相方積み(あいかたづみ)=亀甲乱れ積み
(きっこうづみ)ともいう」。中城城で最も広い一の郭。正殿があった。
後に間切番所が建てられ、廃藩置県後は
中城村役場に使用されていたが、沖縄戦で焼失した。

   
  中城湾 

一の郭は中城城の中でも最も高い場所にあり、城壁からは中城湾がよく見渡せた。

   
二の郭   

   
 中森の御イベ  一の郭城壁から見た二の郭

二の郭、石積みの方法のひとつ、布積みの城壁は直線が少なくほとんどが曲線になっている。
二の郭にも拝所があり、「シライ富ノ御イベ」の名前が付いていた。

   
   二の郭の門

中城城の本丸である一の郭と二の郭の間の城壁にも、グスク特有のアーチ型の門がある。

   
二の郭   

   
   

   
  あいかた積み(亀甲乱れ積み 

二の郭の先にある三の郭は「新城(みーぐすく)」とも呼ばれ、後になって増築された曲輪

   
 三の郭虎口  裏門

三の郭は、石積みの方法のひとつである、あいかた積みで築かれている。

   
 裏門  

裏門は、美しいアーチ形の門で、中城城跡の東側にある。
ペリー探検隊一行がエジプト式と評した精巧なアーチ門

   
三の郭、北の郭城壁   三の郭の城壁が見られる