今帰仁城 

2019年12月29日

   
   

   
   

今帰仁城跡(なきじんじょうあと)は三山時代に北山国王の居城だった。
また、中国や東南アジアとの貿易も盛んで発掘調査により陶磁器などが出土している。
1416年に中山王の尚巴志(しょうはし)によって三山を統一されてからは
1665年まで琉球王府から派遣された監守の居城だったと伝えられている。
石垣は「野面積み」といわれ最も古い造り方と言われている
外郭を含めると7つの郭からなり、その面積は首里城とほぼ同規模で、
城を囲む石垣は地形を巧みに利用し曲線を描き、城壁のディテールは美しい。

  今帰仁の城 しもなりの九年母
志慶真乙樽が ぬきゃいはきゃい
大意:今帰仁グスクの南にある志慶真ムラという集落に
「乙樽」という美女がいました。黒髪が美しい乙女の
うわさは国中に広がり「今帰仁御神」と呼ばれ時の
山北王も側室として仕えさせました。
何不自由なく暮らす幸福な毎日を過ごしましたが、
高齢の王には長い間後継ぎが無く、王妃も乙樽も
世継ぎを授かることばかりを祈っていました。
やがて王妃が子を授かり、そのことを季節はずれの
蜜柑が実ったことに例え、子供のはしゃぐ声に
満ちた平和な様子を謡っています。 
 

  ソイツギ 

北殿跡(ハサギ跡)の西側にあって、
城(ぐすく)ウイミの時ここでも祭祀(さいし)が
行われています。神名は
「ソイツギノイシズ御(お)イベ」とされています。 
   


大庭(ウーミャー)と言う祭祀の広場にある、御庭(ウナー)脇の拝所、御嶽(ウタキ)
御嶽とは、琉球固有の祭祀施設、琉球の信仰における聖域の総称で、神が存在、あるいは来訪する場所

   
 志慶真門郭  志慶真門郭

本郭の奥にある「志慶真門郭」(シジマジョウかく)と呼ばれるところへ降りていける。
志慶真門郭には、側近の武士と家族が住んでいたようですが、城壁で囲まれる。

   
   

   
「テンチジアマチジ」  「テンチジアマチジ」  

今帰仁城には二つの御嶽があり、一つ目は大庭の北西部にある「ソイツギ」。
二つ目はテンチジアマチジ、琉球国由来記』にある「城内上之嶽」という御嶽で、
神名は「テンツギノカナヒヤブノ御イベ」。城内で最も崇高な場所とされ、男子禁制の御嶽である。

   
   志慶真門郭

   
 火の神(ひぬかん)の祠  

祠の右手前にある碑文「山北今帰仁城監守来歴碑記」(さんほくなきじんじょうかんしゅらいれきひき)は
、江戸時代の1749年8月に今帰仁城内に建立された
今帰仁按司(あじ)十世宣謨(せんも)が、1749年に首里王府から今帰仁城の
永代管理と典礼を司ることを許されたことを記念し。故地を顕彰すべ建立。
今帰仁監守は尚巴志が、1416年に山北王滅ぼした5年後に第二子尚忠(しょうちゅう)を
派遣に始まり、その後、尚真(しょうしん)王代に第三子尚韶威(しょうしょうい)を派遣し、
以後同家が代々世襲で現地の監守を勤めた。