二本松城 

2019年8月29日

   
二本松藩丹羽家上屋敷跡出土の石垣   「ちょうちん祭り」の山車

山仲間3人で安達太良山に登った後、二本松城に行く。まず、スタンプ設置の
歴史資料館に入った。1階エントランスホールには「ちょうちん祭り」の山車が飾られていた。

   
 やなぎや うな丼とミニ蕎麦のセット 

昼は「やなぎや」で、うな丼とそばのセットを食べる。

   
やなぎや店内  やなぎや 

昼食を食べた後、二本松城に向かう。

   
 二本松少年隊群像  箕輪門に至る入口

二本松少年隊群像は、二本松城跡箕輪門前に1996年(平成8)7月28日設置されている。
戊辰戦争―二本松の戦いにおいて、藩の兵力は仙台などの応援兵を合わせても僅かに約1千人、
それに対して薩摩・長州・土佐などの西軍は約7千人、徹底抗戦の末、1868年(慶応4・明治元年)
7月29日正午前、ついに二本松城は炎上し、落城。正式に編成され名が付けられた会津藩の
少年16、17歳からなる「白虎隊」とは違って、二本松藩の場合は西軍(討幕軍)が
二本松城下に切迫する直前に、出陣を志願した13歳から17歳までの少年たちが緊急に
各部隊へ配属されたため、正式な名称はない。二本松少年隊群像は、
戦いに臨む少年隊と、その後ろ側で我が子の無事を祈る母がいる。

   
史跡 二本松城跡  大城代・内藤四郎兵衛 戦死の地 

二本松城が落城したのは、白河小峰城へ援軍として出兵した武士たちが戻る前に、
新政府軍に攻め込まれてしまったからである。城を守る正規軍はほとんど残っておらず、
老人兵と少年隊が主力。それでも城を守ろうとした健気さ。それが二本松城少年隊の悲劇に繋がった。
復元された箕輪門。大城代・内藤四郎兵衛は、ここで迫り来る敵兵に対し、
城門を開いて斬り込みを敢行、壮絶な戦死を遂げた

   
箕輪門  山田脩の像 

丹羽光重公所縁の、樫の木で作られた箕輪門、しっかりとした渡櫓門と、
他の二方向からは沢山の狭間(城側から鉄砲や弓矢が打てる小さな窓)が見える。
三の丸の高石垣は、高さ9.9〜13メートルと、高く迫力がある。
会津藩主加藤氏の所領だった時代に築かれたとされている。
箕輪門から三ノ丸への入口は枡形なっていた。
山田脩の像。幕末の二本松藩士で、明治維新後は製糸会社を
創業し、福島県の製糸業の発展に貢献した人物
城内はすでに菊人形会場の準備に入っていて雑然としていた。

   
 本丸の石垣 天守台 

本丸跡も上部にあり、車で行けそうだったので、足を延ばす。
二本松城は、山頂に築かれている「城郭の部分」と山麓にある
「居館」から構成されており、さまざまな時代の遺構が混在している。
天守曲輪の役を担う本丸には、石を加工した打ち込みハギの石垣が見られる。

   
 自刃の碑  本丸

天守台跡の石垣そばには、小城代・丹羽和左衛門と勘定奉行・安部井又之丞自刃の碑がある。
丹羽和左衛門は本宮の戦いに出陣し、薩長軍の優勢な火器を目の当たりにし、
新政府への帰順を建議したらしい。だが、その意見は結局、受け入れられず、
城を枕に討ち死にする。その最期は、床几に腰掛け、軍扇を膝の上に広げ、
割腹した後、腸を軍扇の上につかみ出し、前屈みになって絶命したと伝えられている。
安部井又之丞はそれを見届け、和左衛門の後を追うようにして自刃している。
晴れた日には、安達太良連峰がきれいに見えるが、この日は雨模様で、残念。

城跡の歴史 
二本松城跡の築城は、古く畠山満泰が応永21年(1414)に塩沢の田地ケ岡よりこの白旗ケ峯に居を移し、二本松城と号したとされています。天正14年(1586)に伊達政宗が畠山氏を滅ぼして二本松城は伊達の支城となりましたが、豊臣秀吉の奥州仕置以後、二本松は蒲生・上杉の支城として城代が置かれました。その後松下・加藤氏を経て、寛永20年(1643)に丹羽光重が10万700石で入封、城内の石垣等の修築を行うとともに城下町整備を行い、二本松藩の居城として明治維新に至りました。現在の二本松市街地の原型はこの近世二本松藩成立期の丹羽氏により形成されたもので、基本的には現況の町割と大きな差はありません。このように中世から近世にかけて奥州の要としての位置を占めた二本松城跡は、戊辰戦争においても重要な役割を果たしましたが、慶応4(1868)年7月、二本松少年隊の悲話を残して落城しました。その後、城跡には二本松製糸会社(後に双松舘)が明治6年に建設され、当地域における近代化に大きな役割を果たしました。