2019年1月12日
大学時代のミニ同窓会が愛知県の知多半島にある「小野浦ホテル」であったので参加した。
小野浦ホテルは、同窓生の娘さんが嫁に行ったホテルである。
豪華な夕食がでて、サービスをしていただいた。
新幹線で東京から掛川に行き、掛川城を見学した後、JRで豊橋まで出て、
名鉄電車で、神宮前で乗り換えて、内海線で野間駅まで乗る。
今回は、文庫本「日の名残り」を読みながら列車に乗ったので、
時間はあまり気にならず、列車の旅も楽しめた。
野間駅から小野浦まで歩き出して、途中、「はりつけ松跡地」や野間大坊があり、見学した。
はりつけ松跡地の説明 | はりつけ松 |
はりつけ松跡地は、現在では松は枯れてしまっていて根元部分だけが残っているだけになっている。
源義朝を暗殺した長田父子は、その首を都に持参し、恩賞として忠致は壱岐守に、景致は左衛門尉に
任じられた。後に源頼朝が幕府を開くと、長田父子は鎌倉に参上して前非を詫びた。
頼朝は勲功をあげれば罪を許し、恩賞として美濃・尾張を与えると約束したため、長田父子は
平氏追討に尽力した。だが平氏滅亡後、頼朝は約束通り「身の終わり」を賜うとして、長田父子を
父義朝の墓前で磔にした。このときの辞世の句が「ながらへて命ばかりはいきのかみ身のをはりをば今ぞ賜る」
「美濃尾張」は「身の終わり」にかかっている。美濃と尾張の恩賞のために懸命に働いた
長田父子だったが、賜ったのは死であったということである。
はりつけ松 | 本殿 大御堂寺本堂 本尊は阿弥陀三尊像 |
平治元年(1159)12月末、平治の乱に敗れた源義朝は東国へ逃れる途中、
義朝の乳母子、鎌田政家(正清改名)の勧めで家人(けにん)の
長田忠致(おさだただむね)を頼り、知多半島の野間庄
(現、愛知県知多郡美浜町野間)に向かった。野間の豪族長田忠致は、
鎌田政家の妻の父である。忠致は義朝や婿の政家をさまざまにもてなした後、
恩賞にあずかろうと年が明けた正月3日に入浴中の義朝を謀殺した。
つまり、平氏からの恩賞を目当てにした忠致に浴室で殺されてしまう
源義朝公の墓 |
野間大坊は、源氏の棟梁源義朝が眠る地でもある。源義朝は平治の乱で平家と戦って破れ、
本拠地である坂東に落ち延びる途中、この野間の地で入浴中に討たれた。
そんな義朝のお墓がここにある。源義朝は討たれる際、「我れに木太刀の一本なりともあれば」
と叫んだことから、義朝の廟には大量の木刀が備えられうずたかく積まれています。
織田信長の三男、織田信孝のお墓 | 義朝の従者、鎌田政家のお墓 |
織田信孝は信長死後の政権争いで羽柴秀吉に破れ、ここ野間大坊で自害を命じられた。
鎌田政家(正清)は酒宴の席で長田にだまし討ちにされ、政家の妻は夫の刀を胸にあてて自害
悩み不眠除け稲荷 |
野間大坊客殿 | お砂踏み |
客殿は、秀吉公の晩年の居城、『伏見桃山城』の一部を寛永年間(1624〜43)に移築したもの。
お砂踏みは、本四国八十八ヶ所のお砂が埋まっている。各寺院のお名前を見ながらこの
お砂踏みを通ると、本四国八十八か所霊場巡りの一端に触れることができるとのこと。
冨具崎公園 |
冨具崎公園と書いてある木の看板があったので、アスファルトの急な坂道を登っていくと、
公園になっている展望台があった。
冨具崎公園から望む野間の街並み | ホテル小野浦 |
ホテル小野浦で、ミニ同窓会。
美浜町小野浦は、高校時代に住んだところである。
ホテル小野浦の女将にホテルは昔、ドライブインではなかったかと聞くと、
そうであるといわれる。経営者は変わっていなくて、先代がやっていたとのこと。
知多牛のステーキやアワビのステーキがでて、豪華な夕食である。
外湯 |
夜、外湯にも入る、内湯は天然温泉だが、外湯は沸かし湯である。海際にあって、
夜の空は星が近くに見えて、大きく見える。やはり東京と空気の澄み具合の違いを感じた。
同窓会の次の日も、みんなで野間大坊に行くことになり、再度訪れることになる。
客殿入口 | 知多四国巡りができる |
実家に寄るので、最近足腰が弱ってきている母に、足腰健康祈願のお守りを買う。
楽市 | 魚ひろば |
この日の野間大坊は、楽市と称して、たくさんの店が並んでいた。野菜などが大変安くて、
たくさん買い込んでいる人もいた。
魚広場は、愛知県一の水揚げ量を誇る豊浜港で、活きの良い魚介類を多数扱う海産物市場。
市場内 |
せんべいの里 |
MIZKAN MUSEUMは、愛知県半田市にある「ミツカングループ」により設立された博物館。
日本唯一の酢の総合博物館として、半田運河沿いに1986年に開館した。
開館当初は博物館「酢の里」という名称であった