沼田城・名胡桃城 

2013年4月28日


沼田城と名胡桃城に行った。


沼田城

   
 久米民之助(たみのすけ)像  

大正5(1916)年、旧沼田藩士の子である久米民之助(たみのすけ)は、城地の荒廃を惜しみ、
私財を投じて城地を購入し、公園として整備し、同15(1926)年、当時の沼田町(現・沼田市)に寄付。
現在は沼田公園となっている。沼田城は天文元年(1532)に沼田万鬼斎顕泰が築き、当時は
蔵内城と呼ばれていた。天正8年(1580)に真田昌幸が入城し城の規模を広げ、天正18年(1590)に
昌幸の長男信幸(之)が沼田領二万七千石の初代城主となり、慶長2年には五層の天守を建造した。
 その後5代91年間の真田氏の居城となったが、天和元年(1681)、5代信利が江戸幕府に領地を
没収され、翌年1月に沼田城は幕府の命により完全に破却、その後天守が再建されることはなかった。

   
本丸掘跡の石垣  沼田城本丸堀跡 

JR上越線沼田駅から急な坂道を登りきったところに、沼田城がある。
利根川が削った河岸段丘は有名で、沼田城はその崖の上に立っている。河岸段丘とは
河川の中、下流域に沿って発達する階段状の地形のこと。ここの高低差は70mもあるそうで、
北側と西側はものすごい断崖絶壁になっている。まさに天然の要害という感じである。

   
 旧生方家住宅   旧土岐邸洋館もみられる

   
 旧生方家住宅  屋根には石が乗っかっている

   
沼田城絵図で説明  信之(信幸)(右)と妻・小松姫の石像 

信之(信幸)(右)と妻・小松姫の石像。ほぼ等身大で台座には真田家の家紋「六文銭」が彫られている。

沼田城は利根川、薄根川、片品川によって浸食されてできた河岸段丘の地形を利用して築城されたている。
沼田城は戦国時代に沼田景泰(ぬまたかげやす)によって築城された。その後武田氏配下の真田昌幸により攻略されるが、
ほどなく武田氏が滅亡。その後城主がコロコロ変わるが、また真田昌幸の城になった。豊臣秀吉が天下を
手中にしようとしていた頃、秀吉がまだ従わない北条氏に、秀吉のところに出仕(挨拶にくるように)するように要求した。
北条氏は出仕の条件として、利根、吾妻地域の支配権を要求する。これにより沼田城は北条氏の直轄下に置かれた。
しかし、沼田城代(城主の代わりに城を管理する人)猪俣邦憲が真田氏配下の名胡桃城を不法に占拠し、秀吉の
北条討伐に発展した。小田原征伐の後は真田昌幸の長男・真田信幸(信之)の居城となった。沼田は北関東の要衝であり、
軍事上の重要拠点として上杉氏・北条氏・武田氏といった諸勢力の争奪戦の的となっていたのである。
現在は沼田公園として整備されており、西櫓台と石垣、さらに本丸堀の一部がわずかに残っている。
本丸跡には鐘楼が建設され、信幸の長男、真田信吉が鋳造させた城鐘が釣下げられている。
また、信幸の妻であり徳川四天王・本多忠勝の娘でもある小松姫が「たとえ舅であっても敵である」と、
「関ケ原の戦い」で敵対することになった義父・昌幸を追い返したという逸話もある。

   
谷川岳が雲に覆われている。   右奥に上州武尊山 

天和元(1681)年11月、信利(のぶとし)のとき、江戸両国橋用材調達の遅延と失政の
名目で真田氏は改易となる。翌2年、沼田城は破却され、堀も埋められてしまう。

   
 河岸段丘の上からの眺め  名胡桃城方面の眺め

   
 上州三峰山(みつみねやま)  平八石

捨曲輪に残る平八石。沼田平八郎景義の首級を載せ、真田昌幸が首実検した石と伝わる。

   
西櫓台の石垣  御殿桜 

西露台の石垣は、真田氏時代のものである。300年以上の時を経て、往時の姿をとどめている。
西櫓台跡の石組みの階段は、発掘調査によって発見されたものだ。一緒に出土した瓦などから、
真田時代のものであることが確認されている。

御殿桜は西櫓台の石垣上に大きく枝を張る。樹齢400年以上のヒガンザクラ。

   
 真田氏時代 沼田蔵内城 湊屋横山銃砲火薬店

鉄砲や火薬を売っている店があり、珍しい。

   
 味噌饅頭の店 坂になっている。 

沼田の街を歩いて、味噌饅頭を食べる。河岸段丘の街なので、道を遠くに眺めると坂になっていた。





名胡桃城 

名胡桃城の歴史は、沼田氏の一族である名胡桃氏が居館を築いたことに始まる。
名胡桃氏の居館は、般若曲輪(現在の駐車場のあたり)にあったという
天正7年(1579年)、武田家臣であった真田昌幸は主君の命を受け名胡桃館を攻略し、名胡桃城を築いた。
名胡桃城などの支城も含む沼田城は真田領となったが、利根沼田地方は北条氏と真田氏の領土争いが
絶えなかった。そこで、1589年に豊臣秀吉による裁定で沼田城は北条領、名胡桃城は真田領と定めらた。
しかし、同年11月に、北条方の猪俣邦憲が名胡桃城を奪取するという事件が勃発。私戦を禁じた総無事令に違反する行いに
秀吉は激怒し、小田原北条氏に対し宣戦布告。名胡桃城を巡るこの事件が、豊臣氏による小田原征伐のきっかけとなった。

   
  二郭跡 

本郭、二の郭、三の郭をはじめとした郭が直線的に配置され、それぞれの郭間には堀切を設け、
土橋や木橋を架けて連絡している。城跡にはこれら堀切や土橋が見られ、丸馬出や食違い虎口などが
設けられていた場所に標識が建っている。

   
 名胡桃城址  名胡桃城址の碑 本郭

本郭の中央には、名胡桃城址の碑があり、本郭から曲がりくねった土橋を渡ると、
その先は、ささ郭、袖郭、物見郭と続いている。

   
 名胡桃城からの展望  名胡桃城の周りの城

   
沼田城方面   熊払いの鐘